北浦紀行02

「水上交通の拠点地だった」 鉾田町


 「江戸時代、米などの物資を輸送するには水運が最も優れていました」と鉾田町史編纂専門委員。東北諸藩の物資は海路を船で南下し那珂湊へ。「そこから涸沼川、涸沼を渡り、対岸から馬で運んで巴川、はしけ舟で鉾田の河岸に行き、高瀬舟に積み替えて北浦を下る。そして利根川、川の関所の関宿、江戸川へ入って深川などに行きました」

 北浦の水運業で栄えた鉾田地方、「明治になると地元農産物などを出荷し、東京からは肥料や雑貨、砂糖、石油などが運ばれてきた」。物資を運んだ基地があったのが町の中を流れる水路の鉾田川。「ここに河岸があり蒸気船が入ってきた」

 明治16年には通運丸が運行開始、鉾田・東京間が定期航路となる。大正時代のある年、「出入船舶合計数は約4万3000隻。昭和初期まで鉾田河岸は隆盛を極めたんです。その証拠に花街が賑やかで横町辺りには芸者が40数名いました」

 文豪、田山花袋は大正7・8年頃に訪れている。「鉾田を下る」という紀行文。「(蒸気船から)北浦の巨浸の裏口の扉をなしているような形は、私に地形上の興味を誘わずにはおかなかった……」

 ここから東京まで、風の具合にもよるが「1週間から10日ほどかかった」という。そんな高瀬舟も、昭和30年頃まで見たという記憶を最後に、北浦から姿を消した。それにしてもここから江戸へ、東京へ、水上交通はつい最近の話なのである。

1999.09取材--2001.07制作 


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