Nadia Comaneci (コマネチ)

1976年モントリオール五輪

白い妖精、独裁者に翻弄された人生

 1976年モントリオール五輪、五輪史上初めての10点満点を出した元祖白い妖精。しかし、彼女の祖国ルーマニアは当時、独裁者チャウシェスクが支配する自由のない国。国民的英雄であるはずの彼女も、日々秘密警察に睨まれる。彼女は国を捨てることを決心、アメリカに亡命する。

 彼女は1961年11月12日、ルーマニアのオネスティー(Onesti)で生まれる。当時、ルーマニアは東欧の社会主義諸国の中でも異色で、独裁者チャウシェスクが統治していた。ルーマニアを社会主義国の中でトップに立たせるために、彼はスポーツに力を入れた。チャウシェスクはカロリーコーチに、優秀な選手を国中から探すように命じた。コマネチも彼に見い出された1人である。そのとき彼女は6歳であった。彼女は国中から集められた26人の幼いエリートのうちの1人で、それから毎日激しい練習を強いられるようになる。そこでは機械のような正確さが求められ、まるで金メダルを獲得するための工場のようであった。練習が終わってからの食事や睡眠などの生活も厳しく管理されていた。

 1969年コマネチが7歳のとき、彼女は初めて大会に参加する。ルーマニア国内ジュニア選手権大会、彼女は13位という不本意な成績に終わった。
 その後、彼女はそれまで以上に厳しい練習を自分から進んでするようになり、1975年ノルウェーヨーロッパ選手権で優勝する。

 そして1976年モントリオール五輪、前評判ではソ連が圧倒的に強いとされ、そのエース、オルガ・コルプトは素晴らしい演技を見せた。
 そのソ連に勝った奇跡の瞬間。コマネチの段違い平行棒の演技が始まった。20秒間の演技。完璧な演技であった。しかし、電光掲示板に表示された点数は1.00。彼女は最初「どうしてそんなに低い点数なの?」と戸惑った。が、それが10点満点だと分かり、彼女はさらに驚いた。当時の電光掲示板は9.95までしか表示することができなかったのだ。
 この大会で彼女は10点満点を計7回も出した。個人総合での金メダルを含めて金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル1個。彼女はわずか14歳で一躍世界のトップに立った。

 コマネチのオリンピックでの活躍は、ルーマニアの名を世界に轟かせた。これは独裁者チャウシェスクの宿願であった。凱旋帰国したコマネチに、チャウシェスクは自ら勲章を授けた。国家最高の英雄となった彼女には、1件の家が与えられ、特権階級の扱いを受けた。

 世界のスーパーアイドルとなった彼女には、世界中から招待状がやってきた。国家にとって彼女は絶好の外貨獲得のための材料である。彼女は休む暇もなく、世界中の国を回ることになった。
 そんな中、彼女のコーチ、カロリーが突然解任される。彼はコマネチの生活を元に戻すように体操協会に要求していたのだ。今の生活を続けていると彼女は駄目になってしまうと思ったからだ。しかし、要求は通らず、彼は解任されてしまうのだ。このことは彼女に大きな打撃を与えた。

 オリンピックから2年後、コマネチの姿は無惨だった。練習不足と精神的疲労で体重も増え、大会に出てもミスを連続した。

 そんな中、彼女は衝動的に漂白剤を飲んで自殺を計る。そして数日間の休養をとる。6歳から走り続けてきた彼女にとっては、初めての自分の時間。しかし、ベッドで横になりながら、彼女は「やっぱり私には体操しかない」と再認識する。

 それから再び猛練習、減量も過酷を極めた。

 1980年再び彼女はオリンピックの舞台に立つ。モスクワ五輪、個人総合では金を逃したが、金メダル2個、銀メダル2個の堂々の復活であった。

 しかし、彼女はそこで引退を決意する。19歳のことである。落ちて引退するよりも、トップのまま引退することを前から願っていたのだ。

 それからの彼女は、コーチとして後輩の指導にあたっていた。しかし、この頃になると、外国からの招待状は前と同じようにきていたが、彼女は国外に出ることを許されなくなった。その原因は、1981年カロリーコーチがアメリカに亡命したからであった。彼は体操協会とのトラブル以降常に秘密警察に付きまとわれていたので、自分の体操を続けるために亡命を決意したのだという。

 その頃、実はコマネチにも秘密警察が付きまとっていた。いつも監視され、家の電話は盗聴されていた。そして、チャウシェスクの次男ニクが彼女に目をつけた。彼はコマネチを毎夜パーティーに誘っていた。チャウシェスク一家の誘いを断ることなど、この国では陶然許されなかった。国家に操られる彼女。彼女は日々怯え悩んだ。彼女の弟は彼女に亡命することを薦めた。

 今の彼女には、国を捨てることしか、あの独裁者の家族から逃れる術はなかった。街中に秘密警察の目が光る中、亡命は命がけである。しかし、彼女は決意した。

 1989年11月22日、コマネチはブカレスト駅から長距離列車に乗り込んだ。一般の人々は国内の長距離移動でさえ難しかったが、特権階級に近かった彼女はなんとか列車に乗り込むことができた。向かったのは遥か西の街、ティミショアラ。そこからハンガリーとの国境の街、シニコウラマレーに進む。ここでは彼女とともに亡命する仲間が待っていた。リーダーはコンスタンチン・パニット。何度か亡命希望者を国外に送りだしたことのある人物であった。計画は綿密に練り直された。まず国境を越えハンガリーへ、そして自由の国オーストリアへ。

 草原に引かれたハンガリーとの国境線。黒土の国境線には地雷が埋め込まれている。11月27日、コマネチは生まれ育った故郷をついに出た。国境線を越え、ハンガリーに亡命する。
 しかし、彼女は国境を越えてすぐのところでハンガリー側の警察に逮捕される。掴みかけた自由は、無惨にも取り上げられてしまう。
 コマネチはそこで尋問を受けた。このままルーマニアに強制送還されるかもしれない、彼女はとても怯えていた。

 翌朝、彼女は再び決意、1人でそこを脱走する。そして2日後、オーストリアとの国境を突破、コマネチはウィーンのアメリカ大使館に駆け込んだ。
 1989年12月1日、彼女は特別機でアメリカに渡る。

 苦労してついにコマネチは自由を手に入れる。

 しかし、歴史はそのとき変わった。1989年12月22日、チャウシェスクの演説中、群集から突然「チャウシェスクを倒せ」という叫び声があがった。24年続いた独裁政治は幕を閉じ、12月25日、チャウシェスク夫妻は処刑される。コマネチが亡命してわずか1ヵ月足らずのことであった。

 アメリカで、体操教室のコーチをするコマネチ。しかし、彼女は無性にルーマニアに帰りたくなった。祖国の人たちは自分をどう思っているのだろう。かつては国の英雄だった彼女、しかし国を捨てた女。ルーマニアの人たちがどのように迎えてくれるか、不安はあった。しかし、罵声を浴びせられたとしても、もう一度祖国の土を踏みたい、そう強く思うようになった。
 1994年11月21日、彼女は5年ぶりに帰国した。空港を降りた瞬間、彼女は人々に歓迎された。そこには母の姿も友の姿もあった。「私が帰ってきたことを、みんな喜んでくれている」彼女は涙を流した。

 波瀾に満ちた半生を振り返り、彼女はこう語った。
「体操は私にすべてを与えてくれました。名声も経験も、そして強さも。生きていくための強さを教えてくれました。体操そのものが私の人生です。これまでの人生に後悔はしていません」