Aurelia Dobre (ドブレ)

1988年ソウル五輪

怪我に泣いた前年のチャンピオン、体操選手の果敢ない栄光

 彼女は、ルーマニアで唯一の世界選手権の個人総合のチャンピオンである。ルーマニアは体操王国だが、コマネチも含め他の選手は世界選手権の個人総合では優勝することはできなかったのだ。ドブレが征したのは1987年ロッテルダムで行われた世界選手権であり、当然その1年後のソウルオリンピックの優勝候補になるはずだった。しかし、右膝を故障してしまう。彼女の頂点は「1987年の世界チャンピオン」で、再びチャンピオンになることはなかった。

 彼女は1972年11月16日、ルーマニアの首都ブカレストで生まれる。6歳から体操を始めたが、最初は楽しむ程度であった。9歳になると本格的なトレーニングを始め、1日6時間練習をこなすようになった。12歳になると彼女はディバ(Deva)の国立体操専門学校に入り、1日8時間の練習をするようになった。

 彼女が初めて国際的な舞台に立ったのは1984年モスクワで行われた競技会である。そのとき彼女は12歳、個人総合で4位であった。

 それから3年後1987年、彼女はロッテルダムで行われた世界選手権に参加する。当時最も注目されていたのは、ドブレのチームメイトで仲が良かったシリヴァス(Daniela Silivas)であった。しかし、シリヴァスは平均台で落下するというミスをしてしまい、ドブレにもチャンスが回ってきた。

 ドブレはあまり注目されていなかったが、高得点を連発した。魅せる演技で10点満点も連発し、世界の頂点に立ち、金メダルを手に入れた。その美しい演技は「コマネチの再来」と唱われた。

 新しい女王ドブレと実力のあるシリヴァスを擁するルーマニアチームは「The Romanian Dream」と呼ばれ、翌1988年のソウルオリンピックを目指した。
 しかし、不幸なことにドブレは右膝を怪我してしまう。結局この怪我が致命的となり、オリンピックという一番の舞台で彼女は最高の力を発揮できなくなった。

 ソウルでは彼女は技の難度を落とした。演技は完璧にこなしたが、もともと難易度が高くないため、世界の頂点に立てるほどの点数を出すことはできなかった。団体としてはルーマニアは銀メダルを獲得したが、個人総合では6位に終わった。
 チームメイトのシリヴァスは、総合では金メダルを逃し、銀メダルだったが、種目別で3つの金メダル、1つの銅メダルを獲得、強さを見せた。同じくルーマニアのポトラク(Gabriela Potorac)も総合で4位、種目別でも2つの銀メダルを獲得した。
 結局ドブレは彼女たちの影に隠れて、オリンピックで脚光を浴びることはなかった。

 ソウルでのドブレは16歳とまだ若かった。しかし、4年後のバルセロナで彼女の姿はなかった。

 1990年、彼女の所属していたディバの国立体操専門学校はルーマニア革命のため一時閉鎖され、彼女もそのまま引退することになった。
 1991年には彼女はアメリカに渡り、1992年結婚した。ちょうどバルセロナオリンピックの年である。

 オリンピックでチャンピオンになるためには4年に一度のその時に最高のコンディションで最高の演技をしなければならない。だから、ドブレのように世界の頂点に立ちながらも、オリンピックで金メダルを取れなかった選手もいるのである。

 彼女は現在アメリカで夫と4人の子供と暮らしている。今の彼女を見た人たちは「今の彼女は幸せそうだ」と口を揃えて話す。

 彼女は振り返ってこのように話す。「18歳で初めて恋をした。そこから本当の自分の人生が始まった」

 世界の頂点に立つプレッシャー、そして落ちると注目もされなくなる世間の厳しさ。そんな中から開放されて、今彼女は自分らしい生き方をしている。