神奈川県
  
小田原城 銅門(再建)  

 10〜11世紀に平将門の乱、平忠常の乱がおきた頃、相武地方にも「弓馬の士」という武士団が勃興していた。やがて前九年の役・後三年の役で源頼義・義家の主力として活躍した相武武士団は同族的結合を拡大して鎌倉幕府を生み出す主役となっていった。
 治承4年(1180)伊豆で挙兵した源頼朝は石橋山の合戦に敗れて房総に逃れたが、のちに多数の兵を従えて鎌倉に入ると相模の武士団の多くが頼朝に服し、武家政権を樹立した。しかし源氏将軍の断絶や有力御家人があいついで北条氏に敗れ、しだいに北条氏が実権を握っていった。しかし元弘3年(1333)新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡すると建武の新政の混乱に乗じて入京した足利尊氏は室町幕府を開き、鎌倉には子基氏を派遣して鎌倉府(鎌倉公方)として関東を治めさせた。以後しばらくは鎌倉も繁栄したが執事上杉氏が台頭すると幕府と鎌倉公方の対立が生じ、やがて永享の乱で鎌倉公方足利持氏が敗れると鎌倉府は分裂、上杉氏も分裂して山内上杉氏・扇ガ谷上杉氏となって対立を始め、戦国時代へと入っていった。
 伊豆から蜂起した新興勢力・伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)はまたたく間に大森氏・三浦氏を滅ぼし、氏綱・氏康の代には上杉氏をも駆逐して関東一帯に君臨、小田原城下は文化の中心として発展した。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉によって後北条氏が滅亡すると徳川家康が関東に入府、江戸幕府を開くと相模国は政治・経済の重要な一角として組み込まれていった。

※「でたらめじゃねーか」って方、ご教授ください。訂正します。

名称別称所在地支配遺構・見どころ
小田原城小田原市後北条氏復元天守、復興櫓、復元城門、曲輪、虎口、石垣、土塁、水堀、空堀
幻庵屋敷小田原市後北条氏庭園址
玉縄城甘縄城鎌倉市後北条氏土塁、空堀
大庭城藤沢市後北条氏曲輪、建物跡、土塁、空堀
小机城飯田城・根古屋城横浜市後北条氏曲輪、櫓台、虎口、土塁、空堀
茅ヶ崎城横浜市後北条氏?曲輪、櫓台、虎口、土塁、空堀
榎下城横浜市後北条氏曲輪、土塁、空堀、井戸
権現山城横浜市後北条氏ほとんどなし
青木城横浜市後北条氏井戸
深見城城ヶ岡大和市山田経光?曲輪、虎口、土塁、空堀
土肥城湯河原町後北条氏?曲輪、土塁、空堀
荒井館荒井城真鶴町後北条氏?曲輪、空堀
松田城松田町松田氏空堀
早川城城山綾瀬市渋谷氏曲輪、虎口、土塁、空堀

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