軍艦防波堤……北九州市若松区響町(埋め立て地内)(平成13年2月11日改変、平成19年1月再改変)
1・軍艦防波堤の現状(平成13年2月11日)……北九州市若松区響町(埋め立て地内)
2・慰霊碑……北九州市若松区高塔山
3・軍艦防波堤の成り立ち
4・北九州市港湾局による維持管理(1・1990〜98年の状況/2・1999年の崩壊/3・2000年の修復/4・状況の変化)
1・軍艦防波堤の現状(平成13年2月11日)
洞海湾口に位置する若松港の港口に、通称「軍艦防波堤」と呼ばれている場所があります。旧帝国海軍艦艇の船体を利用して作られたことから、こう呼ばれています。防波堤として使用されたのは、「冬月」「涼月」「柳」の三隻の駆逐艦です。
まず地図をご覧下さい。北九州市戸畑区と若松区を繋ぐ大きな橋、若戸大橋が中央にあります。建設当時は東洋一の大きさを誇ったものです。その橋を通って若松区に向かうとき、橋上から埋め立て造成地が望見できます。
写真に、海上に点々と設置されているコンクリート構造物が見えます。これは「ドルフィン波止場」というもので、この近くが「軍艦防波堤」です。
このコンクリポッドは遠方からも目立ち、よい目印になります。
若戸大橋を渡り若松区に入ったあと、更に「響灘大橋」を渡り、埋め立て地に入ります。地図中央の水路に掛かっているのが響灘大橋です。大橋を渡ってすぐに丁字路にさしかかるので、そこを右折して突き当たりが写真の場所です。車止めの向こう側がドルフィン波止場、軍艦防波堤です。
写真の左端に、目印の海上コンクリポッドが見えます。普通の防波堤上に細長い艦の船体部が固定されいます。船体部は外形をかろうじて保っているだけですが、わずかに艦首部に高速力船の面影をとどめています。
1997年頃、北九州市港湾局によってこの防波堤の由来を示す説明板が立てられました。現在見えている船体は駆逐艦「柳」のもので、他の二艦の姿は見ることは出来ないと書かれています。
この説明板では「柳」を「松」級駆逐艦の「柳(二代)」として紹介していますが、これは「桃」級駆逐艦「柳(初代)」の誤りです(詳細は後述)。
船体内部はコンクリートで埋められています。
舷外鋼板の腐食が著しいため、艦首部舷外は特に補強されています。現在の表層面は上甲板ではなく、もっと下層の高さです(詳細は後述)。
この防波堤が建設された目的は、響灘の波浪から洞海湾を護ることでした。現在、洞海湾の整備はほぼ達成され、湾口には若戸大橋が掛けられています。写真で艦尾方向に若戸大橋がうっすらと見えています。
防波堤近くの埋め立てが進んだことにより、現在では響灘の荒波を直接受けることは無くなりました。戦時、戦後を通じ完全に役目を果たし終えた「柳」の周りは、休日になると多くの釣り人が集まる場所となっています。
2・慰霊碑……北九州市若松区高塔山
若松区内の高塔山の中腹に、「柳」ら三隻の駆逐艦の戦没者への慰霊碑が建てられています。
写真に見える白い塔は「若松市忠霊塔」で、昭和33年(当時は区ではなく市だった)に建てられました。これを目印にして向かうことになります。
三隻の慰霊碑は写真左側の木陰に有ります。
忠霊塔と慰霊碑は響灘の方向にむけて建てられているのですが、現在では樹木などに遮られて海は見えません。
慰霊碑の前には、「柳」の「双繋柱」が二つ並べられています。
この慰霊碑には、「冬月」「涼月」「柳」の戦歴について記されています。「柳」についての記述は全て「松」型「柳(二代)」のものになっていますが、これは「桃」型「柳(初代)」の誤りです(詳細は後述)。
慰霊碑のある高塔山山頂の展望台に登ってみると、遥か遠くに軍艦防波堤が見えました。左写真中央にうっすらと見える赤白煙突の辺りです。右望遠写真のコンクリポット左側の小さな突堤に「柳」が沈設しています。
3・軍艦防波堤の成り立ち
太平洋戦争敗戦を迎え、大日本帝国海軍は解体されました。その後、旧海軍保有の軍艦・軍属艦艇等は戦勝国への賠償に用いられることになりました。大型艦艇はごく一部を除き解体され鉄材として売却され、駆逐艦級艦艇は主にソ連・中華民国へと戦利品として引き渡されてゆきましたが、一部には国内港湾整備のために防波堤として利用されるものもありました。
北九州若松区の防波堤として用いられた駆逐艦三隻「冬月」「涼月」「柳(初代)」は共に、終戦時に九州に於いて健在でしたが、いずれも戦勝国への賠償艦として適当な状態ではなく、その船体は北九州若松港の防波堤として利用されることになりました。
昭和23年5月迄に佐世保にて上甲板より上の構造物を撤去され、7月には若松港船溜りに曳航されてきました。若松港入港路西側には元々沖に向かって浅い砂州が伸びており、その砂州上に三艦が陸側から「柳−涼月−冬月」の順で一列に沈設されました。「柳」と「涼月」は艦首を沖に向け、「冬月」の艦尾が沖側の最先端となる位置関係(陸側→→←海側)です。これを約400メートルの中核として、約770メートルの防波堤が建設されました。
現状では当時の防波堤の状況が分かり難いので昭和45年当時の写真を見て下さい。写真上半分に響灘、そして右下に洞海湾口が見えます。写真中央部の埋め立て地が無かった頃の状況を想像すると分かるように、外海(響灘)の消波に大きく貢献するものでした。その分、傷みも急速に進んでいったと思われます。
「ふるさとの思い出写真集 小倉 明治大正昭和」より複製
三艦の終戦時の状況
「冬月」は戦闘可能な完全状態で門司港において防空任務に就いていましたが、終戦五日後に港内で触雷し艦の後部を大破、航行不能になってしまいました。その後、機雷掃海部隊のための工作艦として働いていました。
「涼月」は20年4月7日の坊ノ岬沖海戦によって艦首に被弾し大破、通常航行(前進)が困難という危機的状況に陥ってしまいました。が、有名な後進帰還を成し遂げ、応急修理ののち佐世保にて防空任務に就いていました。
「柳(初代)」は大正期の旧式駆逐艦であり、昭和15年に既に除籍となっています。よって太平洋戦争には参加していません。主な戦歴として、第一次大戦の地中海遠征隊(増援部隊)に参加して、独軍を相手に英国輸送部隊の護衛を行ったことが上げられます。太平洋戦争中は佐世保において係留され、主に旧制中学の軍事教練の時に利用されていました。ちなみに「柳(二代)」は、昭和20年7月14日、津軽海峡において敵空母艦載機の攻撃を受け後部に被弾、大湊港外の海岸に擱座した状態で終戦を迎えました。その後、大湊において解体されたそうです。
沈設後の軍艦防波堤「北九州の史跡探訪」より複製 船体の形状が明瞭に残る頃の軍艦防波堤「洞海湾小史」より複製
(注:左側写真は、若松港の軍艦防波堤の写真ではないような気がします)
昭和23年に沈設された当時は、三隻とも防波堤上に喫水線から上の船体が上部構造物を撤去した状態で露出していたのですが、現在では「柳」の船体の一部しか見ることができません。
沈設後、鉄泥棒が船体鋼材をガスバーナーで焼き切って持ち去るという被害が相次ぎ、船体の崩壊が急速に進みました。年々の自然劣化も加わり、沈設後13年目の昭和36年9月の台風によって中埋土砂が大量に流失します。そして翌37年の災害復旧工事の時に「冬月」「涼月」両艦の船体はコンクリートによって完全に被覆されてしまったのです。
北九州平和資料館の展示を複製
左の緑がかったモノクロ写真は、昭和36年頃の「柳」の艦首部を撮影したものです。旧式駆逐艦に特徴的な形状の艦首部が、露出させた高さの半分あたりで崩壊しているのがわかります。現在、慰霊碑の前に双繋柱が残されていることから、元々の甲板は全て撤去されていて、現在の表層部分はいわゆる上甲板やや下層の高さだと思われます。
「柳」艦首部には、写真のように「昭和 38.7.22?」と刻みこまれています。36年の崩壊の修復工事の際のものでしょう。
・軍艦防波堤を記録するもの
私が初めて軍艦防波堤なるものを知ったのは、1978年発行の「丸スペシャル駆逐艦朝潮型秋月型」(潮書房・日本海軍艦艇シリーズ)でした。冬月について、『現在も船体の保存状態は良好で、船体内部の各室の入口には、いまなお室名のネームプレートが残っているという』とある紹介文に、いつかこの目で見たいと強く願ったものです。のち念願かない軍艦防波堤の現状を目の当たりにした1990年、しばし呆然としたのは若い日の懐かしい思い出であります。
さて、1999年に発刊された「秋月型駆逐艦」(学研・歴史群像太平洋戦史シリーズ23)に、軍艦防波堤についての詳細な記録が掲載されています。掲載写真は「涼月」「冬月」についてのものばかりですが、沈設当時の情況がよく分かります。以下、要旨抜粋いたします。
(旧陸軍軍医大尉の朝長溶氏によるもの、『日本の海軍』第四号収録「軍艦防波堤物語1(若松港)」より)
23年暮れの沈設成った三艦の様子は次のようなものだったそうです。
・現場に渡るには小舟を利用する。
・沖に艦首を向けた柳は、両側のコンクリートブロックから船首楼上に立派な鉄の梯子が掛かっていた。
・柳の艦首からやや離れて涼月の艦尾があった。
・涼月の艦首左側に冬月の艦首が寄り添う如く並び、両艦首間は跨いで渡れた。
・冬月の艦首には三脚の艦首旗竿が残っていた。
・冬月の艦首喫水線付近は、波に洗われていた。
・艦体内部には岩石土砂が詰め込まれ、涼月の上甲板の大部にはコンクリートが張ってあった。
・三艦ともに船首楼に入ってゆけ、各室入口には室名プレートが残っていた。
・冬月の艦尾部の主砲砲座跡は明瞭に残り、上甲板には工事用木材が多数散乱していた。
その後昭和25年になると、このように環境が変化していったそうです。
・埋め立てた土手伝いに歩いて行けた。
・艦体上端までコンクリートブロックで囲いこまれていた。
・涼月と柳は船首楼のみがコンクリート上に露出していた。
・冬月は船首楼のみ固定、艦体部は依然として水面上にあった。
さらに昭和52年末になると、このようになっていたそうです。
・冬月、涼月は完全に姿を消し、コンクリートで埋め立てられた地表面にはその痕跡も見えない。
・柳のみは、艦の旧態が依然明瞭である。
・全長約80メートルに及ぶ船体が、高い所で約1メートルほど見える。
・船首楼は既に失われている。
・よって錨孔、フェアリーダー、双繋柱など甲板上の細かな構造物も失われている。
・船体中央にコンクリート製の衝立状防波堤が載っている。
昭和52年末の状況と昭和末〜平成初期の状況とを較べると、あまり変化がないといえるでしょうか。
(1990) (1997)
1997年頃に市港湾局によって軍艦防波堤の説明版が設置されました。
(2000) (2001)
1999年秋に大きな破損が生じましたが翌年修復され、そして現在に至ります。
4・北九州市港湾局による維持管理
(1・1990〜98年の状況/2・1999年の崩壊/3・2000年の修復/4・状況の変化)
近年、軍艦防波堤に大きな変化が生じましたので、その経過を紹介します。
台風による破損によって船体部が大きく崩壊してしまったのですが、それに対して北九州市港湾局は修復工事を行いました。これからも当局によって維持管理がなされてゆくと思われます。
4.1・1990〜98年の状況
昭和37年の災害修復工事によって、船体内部は下方に廃材や捨て石を詰め込み上方に40センチ〜1メートル程のコンクリート層によって充填されていました。その後は朽ちるがまま放置され、1990年頃には船体鋼板は特に左舷前方では大部分が失われてしまった状況となっていました。
これらコンクリートなどで裏打ちされていなければ船としての外観は保てないように見えました。
4.2・1999年の崩壊
1999年秋頃、軍艦防波堤上に残されていた「柳」船体部分に大きな崩壊が生じました。防波堤そのものの破損は目立たず船体部分だけが崩壊した状態です(2000年1月13日にその状況を撮影しました)。
艦首部の細い部分が、ブロックごとに左舷側にズレています。
写真左手側から波を受けたことによるのでしょう。
舳先の軸が残っているのが印象的でした。
コンクリートを流し込んだ当時は残っていた部屋の仕切り鋼板が腐蝕して無くなり、そのためコンクリのブロックが僅かな隙間をもって数珠繋ぎになっている状態だったようです。最もズレたブロックは艦幅の半分くらい移動しています。
4.3・2000年の修復
1997年頃から、北九州市広報コラムに軍艦防波堤の存在が紹介されたり、港湾局によって説明版が立てられたりするなど保存存続の動きが見られていました。その方向性は1999年の崩壊によっても変わらず、2000年夏までに修復工事が行われました。
横に大きく移動したブロックを整復し、おそらくコンクリ層下方の空隙も補填されたと思われます。白いコンクリートによって舷外の艦首部が補強されています。
艦首部クローズアップです。両舷側は防錆のために濃い茶色ペイントが塗られています。
崩壊した状況を思い返して崩壊前と見比べると、実に見事な修復に驚嘆します。
砕け落ちた舷側部ブロックは整復され、欠損部はコンクリートによって補填されています。
4.4・状況の変化
●艦首部
(1990/12) (1997/?)
(2000/01) (2001/02)
柳船体の崩壊は、特に艦首部に著しく現れました。舳先はゆるぎなくほとんど変化はありませんでしたが、周囲の鋼板は目に見えて減っていきました。
●艦首部上面
(1995/?) (2001/01) (2001/02)
1999年秋まで、上面は表面的に崩壊の進行は目立ちませんでした。そのため、一層崩壊の激変ぶりが出ています。修復後に見える四丸のコンクリート孔は部位復正のための起重移動時の傷と思われます。
●舷外鋼板
1990年頃は外鋼板は著しく崩壊し、詰められていた石材が欠損していましたが、2001年の修復に際してこれらは整理されました。
外鋼板部(2001)
外鋼板部(1990)
修復に際して除去された鋼板欠片や石材が、近くに多数落ちています。
●艦後半部
艦後半部は船体両舷の鋼板が切断され、船体が下方に屈曲しています。この破損がいつ生じたものかは分かりません。2000年夏に行われた欠損部補填と防錆塗装処理はここも含め船体全体に行われています。
艦後半部右舷部(1990) 同(2000)
●艦尾部
先の切断屈曲部から艦尾部までは、1990年頃から全く変わっていないように見えます。
(1990) (2001)
1999年の台風により船体部の崩壊が生じたとの報せを知り、ああこれで「柳」も姿を消すのか、と心底残念に思いました。修復し、貴重な戦争遺跡を後世に遺した「北九州市港湾局」に拍手。