豊川海軍工廠跡
愛知県豊川市・名古屋大学太陽地球科学研究所敷地部分 

 愛知県東部の内陸部に、戦時中「豊川海軍工廠」がありました。ここは、終戦間際の昭和20年8月7日に米軍戦略爆撃部隊の猛爆撃を受けて壊滅的打撃を被りました。現在、跡地の大部分は自衛隊駐屯地や企業地として用いられていますが、北西部の一角は「名古屋大学太陽地球科学研究所」が使用しています。この部分は申し込めば見学が可能でして、見学させてもらいました。 

 豊川海軍工廠の敷地外形は、まるで船のように見えます。東洋一ともいわれる規模の軍事工場でした。
 ……それにしても、どうしてこんな内陸に「海軍」工廠なんでしょう?疑問です。
(跡地近隣の「桜ヶ丘ミュージアム」展示パネルを撮影)
 
 跡地近隣の「桜ヶ丘ミュージアム」には、豊川海軍工廠に関する展示品があります。歴史や生産品などとともに、精密なジオラマが展示されています。
(桜ヶ丘ミュージアム展示品を撮影)

 冒頭の空中写真で緑地帯に見える北西部を撮影したのが左写真です。右写真は、その中で特に名大敷地に相当する部分を撮影しています。大型の箱形建造物や、周囲を土塁で囲われた建物が多数見えます。
(桜ヶ丘ミュージアム展示品を撮影)



名古屋大学太陽地球科学研究所内の遺構
 名古屋大学太陽地球科学研究所敷地です。写真は正門から入ったところです。8月7日の大空襲でも、幸いにこの北西部はさしたる被害を受けずに済みました。そのために、朽ちつつもこれら遺構を現在でも見ることが出来ます。


 太陽地球科学……このような研究は、観測機器を設置するために広大な敷地を必要としますが、その敷地内に何が有っても別に問題はないわけです。個々の研究棟とそれらを結ぶ、点と線以外のところは、旧軍遺構がほぼ原型のまま残っています。

昼暗い林や、当時の通路脇には、遺構と思われるものがポツリポツリと残っています。 

コンクリート製弾薬庫

 当時の通路を歩いていくと、小山のように見えた一部が、コンクリート肌になっている箇所があります。
 なんとか近づくと、その小山は元弾薬庫でした。扉は一カ所です。コンクリ壁には、空襲時の弾痕と言われる傷が残っています。

 左の写真の場所、遠くから見ると完全に緑に埋まっています。
 小径を通って近づくと、ここも弾薬庫跡でした。……左写真、凄まじいの一言です。

 この弾薬庫跡は、扉が三カ所並んでいるタイプで、先の物よりもかなり大きい物です。

 一カ所の扉は開いていましたので内部を撮影しました。なんだか体育館の倉庫のような雰囲気です。


その他の遺構
その他の遺構・1

その他の遺構・2

その他の遺構・3(将校用のプールと伝えられています。)

その他の遺構・4


その他の遺構・5

その他の遺構・6

その他の遺構・7
名大研究所本館の裏手にはテニスコートがあるのですが、その脇は木々が鬱蒼と茂るがままになっています。

夏の季節には近づきたくないこの場所に、旧軍施設が埋もれています。 まるで木々に押しつぶされつつあるようです。


遺構の内部をいろいろと撮影しました。部屋の天井が朽ち、崩落している箇所も多いです。内部は、比較的撮影しやすかったですが、外観全景は先の有様で、とても撮影できませんでした。 

その他の弾薬庫群
その1
研究所入り口から入ってすぐの右側にあるものです。

植木が綺麗に刈り込まれている通り道の奥に、コンクリート製のトンネルがあります。その奥に家屋が残されています。

入り口から覗くと、廊下はきれいですが、部屋のなかはメチャメチャです。天井はほとんど落ちていました。
その2
他に、研究所裏側にも先の物と似た形状の弾薬庫が数棟残っています。これはそのうちの一つです。四方を囲む遮蔽壁、コンクリ製のトンネル通路、内部の家屋、内部の様子、この弾薬庫が最も原型を留めています。


その3
ここは内部がやや撮影しにくかったと思います。

その4
ここも内部の撮影が難しかったと思います。記憶が混乱していて良く覚えていません。

四カ所とも、トンネル通路の形状が異なっています。完全に同一のものはなかったように思います。

豊川海軍工廠戦没者供養塔
 昭和20年8月7日、米軍戦略爆撃部隊の猛爆撃を受けて壊滅的打撃を被りました。この空襲は、実質わずか26分間であったといいます。午前10時30分頃に開始された、その30分足らずで2700余名が死亡しました。

 敷地近隣に、供養塔が建てられています。全国各地から集まった従業員が、ここで戦没したことが判ります。台座には戦没者の指名が四周に刻まれています。