東郷神社・東郷公園
福岡県津屋崎町
東郷大将に由来する神社はどうやら全国各地にあるようですが、福岡県津屋崎町にもその一つがあります。ここは、日本海海戦海域に最も近いということで選ばれたそうです。海岸に突き出た小さい岬全体が小高い丘になっており、その中腹に東郷神社が、そして丘全体が東郷公園となっています。
1・東郷神社
写真1 東郷神社鳥居 写真2 由来碑
鳥居の脇にあるのは、喫茶店「三笠」です。ここの経営者が、神社も管理しています。私が行ったときは残念ながら準備中でした。由来碑には、東郷元帥が死去した昭和9年ごろから元帥を神として奉る気運が高まり、ゆかりのこの地に創建されたと紹介されています。
宝物館
写真3 境内の宝物館入り口の砲弾
境内には宝物館があり、その入り口には、写真のように砲弾が置かれています。砲弾の由来は全く分かりません。
写真4 伝・海戦時の三笠主砲砲口部 写真5 その切断面
入り口の砲弾と反対側には、日本海海戦に使用された三笠主砲と伝えられるものが残されています。
背後の看板には、詳細な由来が紹介されていました。これによると、昭和20年8月の終戦により、兵器処理委員によって昭和14年4月以来公園内に陳列されていた三笠主砲ほか各種大砲計7門全ては、切断され八幡製鉄所の溶鉱炉に投入されることになっていたのですが、財団法人「日本海海戦偉業保存会」理事長安部正弘氏が委員に一片の保存を願い出、了承を得て地中に埋没保存していたものだそうです。
昭和21年、北九州市浜田組(現・濱田重工株式会社)によって切断処理された後、朽ち錆びつつありましたが、昭和60年5月、日本海海戦八十周年を機に、濱田重工会長濱田満寿次氏により耐蝕性、耐候性などの防蝕対策が施され、保存修復されました。
写真6 宝物館内部展示物・Z旗(レプリカ)
宝物館内部にはいると、まず大きなZ旗が飾られています。そして元帥の書による例の文面が。
写真7・8・9 伝・海戦時の三笠探照灯とその反射鏡
館内展示物で最も目を引くのが、この探照灯です。背面のショーケース内には反射鏡も置かれています。
海戦時のもの、と書かれていますが、その根拠はわかりません。直後に佐世保にて爆沈していますが、その時に取り外したものなのでしょうか?
写真10 東郷元帥国葬時のもの 写真11海軍省本館の柱 写真12 沖島(旧露軍艦アプラクシン)写真
元帥の国葬時の諸員所定心得書というのが面白いです。海軍省本館を解体するときに何かの研究材料として保存されていた柱の一部、という変わり種展示品もあります。マフラーは知覧特攻隊隊員のものだそうです。
写真12は、元バルチック艦隊の一員であった露艦アプラクシンの写真です。同艦は捕獲され沖島と命名され日本艦となりました。沖島は海域近海の小島であり、津屋崎となじみ深いためにこの写真が展示されています。
この写真は、沖島艦を目標として津屋崎港外にて行われた「包囲模擬演習」を撮影したものです。特に縁深いものだというとこで、元帥が写真の書を添え安部氏が拝受したものです。
写真13・14 東郷元帥の書
他にも多数の書が展示されています。
2・東郷公園
写真15 東郷公園の石碑
鳥居に前には、写真の石碑が置かれています。よくわかりませんが、「想日本海海戦」という詩のようです。碑の左背面に少し見える階段を登って行くと、大きな記念碑が建てられています。
日本海海戦記念碑
写真16・17 公園内の日本海海戦記念碑
先の石碑から歩いて2分くらいで岬の丘頂上に着きます。そこにはこのような大きな記念碑が建てられています。東郷神社創建者が私財を投じて建てたものだそうです。
写真18・19・20 記念碑の形状(旗竿基部から見下ろす)
写真17のポール基部に見える手摺の場所まで(ちょっと冒険すれば)登ることが出来ます。そこから記念碑全体を見下ろしています。全体の形状が船の形をしていることが分かります。なかなかに面白いです。
写真21・22 記念碑各部
記念碑背面の「日本海海戦記念碑」という文字を上から見ています。
本当は見えません。腕一杯伸ばした恰好で突き出して撮影しています。せっかく登ったのだから……と思って撮ったのですが、改めて見ると何を考えていたのか。
記念碑前方の単装砲は、ちゃんと尾栓らしきものも備えています。しかし元が何だったのかよくわかりません。全体がコンクリートで固められています。砲身も全て覆われています。この岬頂上には、いつかは分かりませんが陸軍の監視所が置かれていた時もあったそうで、この砲が海軍の物なのか、陸軍の物なのかも分かりません。
写真23 津屋崎海岸から記念碑を見る
津屋崎海岸まで下りると、岬の頂上に記念碑のシルエットが見えました。
津屋崎は、現在は海水浴場として良く知られていますが、日本海海戦記念碑があるというのはあまり知られていません。納得ゆかないことで、残念です。しかし、周囲の評価と関係なく、この神社と記念碑は今も昔も歴史を伝え続けています。