数珠山砲台跡()
 下関市近郊の海岸近くの高台に、大正期に造られた砲台跡が残されています。場所は、彦島と本土を結ぶ有料道路の近くです。
 このページは主に明治期の砲台跡を探索していますが、時代が異なる砲台の様子を比較するのも面白いと思い、探索しました。

 現在、数珠山周辺は宅地化が進み、すぐ近くまで民家が迫っています。写真の坂道を入ると至近距離まで車で行けます。

写真1入口 坂上の曲がり角に石柱がある 写真2車が入れる限界 左側には四角形の貯水槽がある

写真3 石垣と何かの施設の跡       写真4 円形井戸
 写真2の小径から奧は、竹薮が両側に茂り人気は全く無くなります。
 すぐに石垣や円形井戸などが残されている場所に着きます。これらは民家からは崖によって隔離されているので、砲台施設として用いられていたものと思われます。

写真5 資材置き場            写真6 写真5の中央付近に近づいて撮影 ひどく荒廃している
 小径の最奧部は、資材置き場となっています。雑草や蔦が激しく茂り、現在も使用されているのかどうかは不明です。解りやすく見渡せる写真は撮れませんでした。建築資材が野積みされている場所にこのようなコンクリート製の遺構が残されていました。倉庫のような形と、その左上に設けられている見張り所のようなものが見えます。
 
写真7 見張り所横面            写真8 見張り所前面
 倉庫左上の見張り所らしきものは、このような形をしています。前面、横面、後面と撮影しました。

写真9 倉庫左脇の砲台座跡 白いものは段ボール紙
 見張り所の横には、写真のような直径15メートルほどの半円形をした平地があります。半円形の周囲は高さ1メートルほどのコンクリート壁で囲まれています。壁の向こうは壁上縁まで山土で覆われ、竹薮となっています。数珠山山頂付近の尾根に設けられているので、竹薮の向こうは数メートル先で急な崖となっています。写真は西側を向いて撮影しています。竹薮で見えませんが、日本海が見える方向です。

写真10 数珠山山頂付近
先の砲台座跡付近から南側を撮影しています。尾根が続いているのですが、撮影に失敗してそれらしく見えません。奧に、民家の二階屋根が見えますが、この撮影位置からその辺りまで、砲台遺構が続いています。撮影位置から奧に向かって進んで行くと、数カ所に砲台遺構が残っています。全体像は全く把握できませんでした。

写真11 砲台座の半円形の壁の一部
 例えば、砲台座跡は先のものを含めて三カ所確認できるのですが、全体の半円形を見渡せるものは先の場所しかありません。わずかに半円形周囲を囲む壁しか見えません。

写真12・13 二つ目の倉庫跡 上の見張り所らしきものは右上に付いていた
 先の物とほぼ同型の倉庫も、もう一カ所残っているのですが、ここは雑草雑木のために近づくことも出来ませんでした。右上に付いている見張り所らしきものも竹薮に覆われて見え難くなっています。

写真14 砲台座跡
 三つ目の砲台座跡も、全体は見えません。半円形の壁の両端を入れて撮影しています。写真10に見えている場所に、これら倉庫一つ、砲台座二つが残っていました。

写真15 観測所跡
 写真10に見えていた民家の脇にまで進むと、このような構造物が残されています。観測所として用いられていたと思われます。二つの部屋があり、部屋の間にある溝のところに、上部見張り所への階段があります。

写真16 左側の部屋外観        写真17 右側の部屋外観 中央の階段が少し見える
 観測所左側の大きな入り口からは内部に入れませんでした。観測所右側の小さな入り口からかろうじて入ることが出来ます。写真16では、向こう側の竹薮が見通せています。


写真18 中央の階段 上から撮影 写真19 階段を登った所にある観測所上部見張り所
 観測所中央部には、非常に狭く急な階段があります。成人の肩幅いっぱいの幅しかありません。階段を登るとこのようなスペースが有ります。下部の両脇の部屋に通じる斜めの孔が開けられています。伝声管か、連絡筒のような印象を受けました。

写真20 観測所内部     写真21観測所西側の観測所
 観測所右側の入り口から内部へ入ると、周囲の民家が倉庫として使っていたようで、木製の窓枠をはめ込んでいたり、電灯を引いていたりした跡があります。内部で右側から左側へ移ると、写真16に写っていた竹薮が見えてきます。竹薮の手前には、観測所施設らしい形状をした部屋が半露出していました。

写真22 観測所左側の部屋を西側から見る 写真21の円形部屋から撮影
 裏の竹薮に抜けて、反対側から撮影しています。写真16のちょうど反対側になります。この部分の天井には破壊されたような痕跡が有り、周囲にはコンクリ破片が散乱しています。当時、天井がどのような形状だったのかは判りません。当時から半露天型だった可能性もあります。もう少し下がって撮影すれば、円形の部屋を判りやすく写せたのですが、竹薮がびっしりと茂っていて、それは出来ませんでした。

写真23・24 円形部屋の床の一部
 円形部屋の床には、金属製の箱形をしたものが設置されていたようです。

写真25 観測所跡の脇の石垣       写真26 石垣の近くの廃虚
 観測所跡から更に南側に進むと、石垣や、写真のような廃虚然としたものがあります。錆びた表札があったので、戦後に人が住んでいたようです。しかし、窓が全く無かったり、厚いコンクリートで造られていることから、民家として作られ、廃虚となったものではなく、おそらく元々は砲台施設の一部だったと思われます。

写真27・28 放置されている石柱
 写真26の廃虚の脇には、このような石柱が倒されて転がっていました。表面には「陸軍所轄地」と刻まれています。この石柱以外に、この場所が要塞施設だったことを示す証拠は有りませんでした。打ち捨てられているような状態ですが、この石柱は意外と貴重な歴史の証拠だと思います。