霊鷲山堡塁跡()
1・霊鷲山堡塁へ

写真1 霊鷲山への遊歩道入り口
 火の山山頂の公園にゆく道の脇に、「霊鷲山」への遊歩道入り口があります。約4kmの山道を行くことになります。

写真2・3・4 遊歩道途中の石柱
 遊歩道を行くと、要塞陣地であることを示す小さな石柱が道端に数カ所残っています。この写真の石柱は特別に大きなものです。これは、霊鷲砲台のためのものではなく、火の山砲台のためのものかも知れません。

写真5・6 霊鷲山山中の井戸 写真では歪んでいるが実際は円形をしている
 山道を3kmくらい進むと、山中に円形井戸が残されています。井戸の周囲には石垣なども残されていますが、遊歩道整備などで分断破壊されて全体像は全く解りません。

写真7・8 霊鷲山山頂への最後のカーブ 標識の左奧には銃眼を備えた構造物、右側には石垣が見える
 ようやく霊鷲山山頂に到着です。道しるべの奧に石垣が見えます。写真7の大きな坂を上ると山頂広場に出て、こに残されている倉庫群を見ることが出来ますが、まずは写真7の奧の狭い道を進み、周囲を探索することにします。

写真9・10 写真7の奧の道の部分 銃眼を備えた構造物がある
 写真9の右側に、煉瓦製の構造物が有ります。低いアーチ型をした孔は、銃眼部です。

写真11・12 銃眼のクローズアップ 非常に狭く造られている 壁の厚さは約80センチ
 銃眼という構造が残されているのは、明治期の下関要塞地帯では、おそらくここだけと思われます。

写真13 霊鷲山山頂からの眺望
 写真13で、下関市街を見ています。写真の継ぎ目辺りの平地に、旧下関市街地がありました(海峡夢タワーがかすかに見える)。この霊鷲山砲台は、下関市街から最も離れた場所に設けられた陣地です。ここに白兵戦を想定した構造物を設けたというのがよく理解できないですが、もしかすると最後の砦とする予定だったのでしょうか。
 写真の眺望を、左側から説明して行きます。
 対岸のタンク群後ろの山が九州門司区の古城砲台、その右側に和布刈砲台がかろうじて見えています。
 正面に見えている丸形の山は火の山で、山頂に砲台が設けられていました。
 火の山の左側に見えている市街地は北九州門司区です。
 写真中央の継ぎ目辺りが下関市街地です。
 写真右側上方の海が日本海、右端ぎりぎりに見える海岸の丘に金比羅砲台が設けられていました。 
2・陣地の周囲

写真14・15 西側のコンクリート壁 写真14で、道と壁との高低差がわかる
 先の、狭い道を通って行くと、陣地の西側を伝ってゆく恰好になります。道の脇にはかなりボロボロになった壁が残されています。

写真16 石垣が低くなり、乗り越えられる場所がある
 狭い道を奧に進むと、左手に見えていた写真14・15の壁が徐々に低くなって行きます。100mほど進むと、写真16のように舗装道路から離れて小径が造られています。壁もここで折れ曲がっているので、壁に沿って歩いて行く恰好になります。

写真17 写真16の奧
 写真16の小径を入って右手側を撮影しています。中央の遊歩道は、石垣と壁を破壊して通しています。この場所では、壁が切断されているので、壁の内部構造をみることができます。壁の基礎部は煉瓦製で、コンクリート板を挟んでさらに上部に煉瓦製の壁を造っています。
 遊歩道を進むと倉庫群のある山頂広場に出るのですが、引き続き周囲を探索して行きます。

写真18・19 写真17の崩壊部両端
 写真18で見える白い部分が挟まれたコンクリート板部分です。写真19は、落下した(または破壊された)コンクリート板です。 
3・東側の壁と石垣

写真20 写真17の脇、コンクリート壁とその前の通路
 写真16の小径を入って写真17の場所へ出ました。さらに小径を進むとすぐに陣地の東側を守る壁の場所に着きます。この東側の壁の外側には、このように通路状の溝が造られています。明らかに攻城戦を想定した構造です。

写真21 写真20の通路の奧 右側の山土が無くなる場所には、石垣が設けられている
 通路は、写真一枚では収められませんでした。写真20の奧には、写真21のようになっています。距離的には200m近くあります。

写真22・23 壁前の通路 通路の底(22)から、壁反対側の崖上(23)から撮影
 通路に降りて石垣を見ると、このように見えます。恐ろしげな雰囲気です。攻城兵の墓場となる場所でしょう。

写真24 壁裏側から通路を見下ろす   写真25 壁裏側の通路
 壁の上から見ると、通路は丸見えの状態です。壁には銃眼などはなく、頑丈なコンクリート壁です。この東側の壁は西側の壁と比べて非常によく保存されています。

写真26 写真25の通路部の排水溝
 壁の内側の排水溝は、ほとんど土砂で埋められていましたが、一部はほとんど当時のままで残っていました。深さは約1mほど、表面を落葉で覆われていたので、多少危険です。

写真27 写真24の部分を表から見る 写真28 石垣の最奥部左側の部分は煉瓦製となっている
 写真21で見えていた石垣は、ちょうど山土が無くなる場所を補填するように設けられています。石垣の高さは約5mほどです。写真28で折れている場所から奧は、石垣製でなく煉瓦製です。

4・石垣北端の銃眼

写真29 煉瓦製の部分   写真30 写真29の裏側 崩壊しているが、基礎部には銃眼の模様が見える
 写真28の煉瓦部分で、東側の壁(石垣)は終わります。写真29で、煉瓦壁が斜めに崩れているのが見えますが、その斜めに崩れている場所を反対側から撮影したものが写真30です。この写真で、基礎部に円形をした煉瓦の模様が見えます。この模様は写真11・12でみられた模様と同じものです。この崩壊部分にも銃眼が設けられていたことが解ります。

写真31 銃眼部分を石垣の内部から撮影
 この部分は完全に破壊されているので、壁を乗り越えて内部に入ることが出来ます。写真31左端に見えている煉瓦壁は、写真29・30で見えているものと同じです。正面に見えている影になっている部分が銃眼のある壁です。銃眼は二カ所並んで造られています。銃眼内部の、銃を据える部屋は破壊された壁などで埋め尽くされていました。

写真32 崩壊状況 写真33 写真32の中央部煉瓦壁
 銃眼のある壁の上部は徹底的に破壊されていて、両脇の壁しか残っていません。写真32は写真29・30・31とは逆側の壁です。ここでも壁の内部構造が判ります。煉瓦とコンクリート板と石板とを組み合わせています。

写真34 写真33崩壊煉瓦壁の裏側 右側に見える通路は陣地中央の倉庫群のある広場へ続く
 写真33では、破壊された壁の奧に石垣とその上のコンクリート壁が見えています。この壁が写真34では左手側に見えています。裏側には通路が設けられています。通路は手前で左に曲がり、写真31の銃を据える部屋に続きます。通路は写真の奧方向にも続き、山頂広場の倉庫群近くにまで伸びています。
 ここまで来ると、陣地外周を約四分の三回ったことになります。これ以外の場所は崖となっていたり荒れ果てていたり、また破壊されていて探索できませんでした。 
5・陣地中央の倉庫群

写真35・36 山頂に設けられた倉庫群
 周囲の探索ののち、写真7・8の場所に戻って山頂広場へ続く坂道を登ると、倉庫群が残されています。手摺なども完全に整備され、公園の一部とされていますが、何の説明板もありません。写真13の展望は、写真36に見える倉庫群上の展望台からのものです。六つの前面アーチが並んでいます。

写真37・38 倉庫の状態
 前面の壁は完全に破壊され取り除かれています。奥行きは約15mほどです。内部壁が白く塗られていることや排水施設の形状など、北九州市内の要塞施設と全く同じです。

写真39 倉庫奧の通路   写真40 一カ所には円形井戸が造られている
 向かって左端の二つは単独ですが、他の倉庫は、奧の部分で通路によって連絡されています。左から二つ目の倉庫には、写真40のように円形の井戸が設けられ、ここだけは天井中央部に通気孔が開いています。

写真41・42 奧の天井に設けられた通気孔から土砂が入り込んでいる 写真43 東端の倉庫は前面を埋め立てられている
 先の倉庫以外は、最奥部の天慶に通気孔が開いています。そこから土砂が入り込んでいます。また一部の壁は破壊されています。外見は六つのアーチが並んでいますが、右端の倉庫の最奥部には更に続く通路が開いているので、少なくとももう一つ、倉庫が並んでいたようです。写真41がその七つ目の倉庫への通路、写真42が通路から七つ目の倉庫を覗いたところです。七つ目の倉庫の前面は、写真43のように土砂で埋められています。写真35の奧方向にある突き当たりの壁の向こうに、当時はもう一つ倉庫が続いていたことになります。おそらく倉庫群上の展望台への階段を造成するする際に埋め立てられたのだと思われます。

写真44・45・46 倉庫群上の構造物 階段や排水溝が見える
 写真44で見られるように、この倉庫群は完全な地下倉庫です。地上部は現在展望台となっていますが、その斜面に、階段がおかしな状態でかろうじて残っています。また、倉庫前面の雨樋と垂直的に同じ位置に排水溝らしきもの(写真45・46の白いもの)が見えています。なにか施設があった名残でしょう。


 展望台や、山頂広場には当時のものはなにも残っていなかったので撮影しませんでした。
 今となっては、もっと撮っておけばよかったと後悔しています。