特攻兵器レ艇基地跡
 戦後の引き揚げに湧いた後は何という目立つ出来事もなく徐々に衰退への道を辿っている門司区ですが、最近は「レトロ都市・門司」というコンセプトをもって地位浮上をめざしています。そんな門司区は、いろいろな観光名所が盛りだくさんです。そういうものに目もくれず、ひたすら戦跡を巡る私は一体……。ここは、古くから陸海双方ともかなりの規模の防備体制を敷いていました。そのいくつかは現在も残っています。この施設は、昭和期、太平洋戦争末期の頃のものです。 
 門司区は、大きく分けて表門司(関門海峡周辺から小倉東側)と裏門司(周防灘方面、新門司ともいう)に分けられます。その裏門司側、周防灘に面した位置に、この「レ艇基地跡」はあります。
 まずは地図をご覧下さい。

地図1 四角で囲んだ場所を地図2に示す       地図2
 この小さな岬の突端にある、干満の差によって島になってしまう「蕪(かぶら)島」周囲に掘られた横穴に、陸軍の海上特攻兵器「四式連絡艇」通称「レ艇」を格納する洞窟が掘られ、来る本土決戦時の米軍襲来に備えていました。 

蕪(かぶら)島とその周辺

写真1 蕪島のある岬、周囲は採石場である 写真2 蕪島 海岸線近くの穴が見える
 周囲の陸地は全て私有地の採石場、周囲には「発破作業につき立入禁止」の看板がいたる所にあります。おそらくかなり危険な場所なので、もしも見学に行かれる方は御注意下さい。海岸に降り、波打ち際を進むことをおすすめします。
 採石場は3時半に閉まりました。私は門が閉じた後で波打ち際を辿るコースで蕪島に近づいていきました。
 写真1の中央で、木々が分かれているところから、露出している岩肌が全く変わります。そこより陸地側は白い岩肌、蕪島は赤い岩肌でした。海岸線を辿って、採石跡の崖を通り過ぎたあたりから、格納庫跡と思われる横穴が見えてきます。
第一地点

写真3 第一横穴       写真4 コンクリ護岸
 だいたい海面から1.5mくらい上がった場所に横穴がありました。周囲に人工物が全くないので、コンクリートの残骸が非常に目立ちます。場違いなコンクリ護岸がなければ、自然の洞穴と思って見過ごしてしまいそうでした。このコンクリ護岸が当時もあったのか、戦後作られたものかは分かりません。

写真5 第一横穴入り口         写真6 第一横穴から周防灘をみる
 穴の入り口は、砂利などが積み上げられていて、元の大きさなどは分かりません。写真3に見られる護壁の上端が写真6に見えます。この護岸が当時のものならば波避けや擬装の目的のもの、戦後のものならば埋め立て目的のものでしょう。

写真7 最奥から
 写真5で見た入り口と、最奥から見た様子はだいぶ異なります。岩肌は非常に硬く、崩壊の危険性はほとんどないように見えました。
第二地点

写真8 波打ち際のコンクリ護岸
 第一横穴から十数mくらいの場所に、陸地に向かって細く続く砂浜がありました。ただの砂浜かも知れませんが、波打ち際に第一地点と同様にコンクリ護岸がありましたので、特攻艇部隊も何かの用に用いた場所と考えられます。
第三地点

写真9 横穴入り口           写真10 この地点はコンクリ構造物が多い
 先の砂浜から更に十mくらいの場所に、二つ目の横穴があります。この穴は海面からやや高い場所にあり、入り口のコンクリ護岸は、他と比べて最も堅牢なものでした。コンクリが戦時のものだとすると、格納庫ではなく乗員詰め所のような所かもしれません。内部は海水?などが溜まっており入ることはできません。
 この横穴の周囲には、写真10のように、円形のコンクリ構造物が幾つか備えられています。重要地点の雰囲気がありました。
第四地点

写真11 砂浜奥の横穴を波打ち際から撮影
 第三地点の隣りに、写真11の横穴があります。波打ち際から続く細長い砂浜とその奥の横穴と、自然を利用した特攻艇基地のイメージに最も合う場所でした。ここにも、コンクリートの護壁がありました。写真の、砂浜を分断している岩状のものがそれです。
 ここまでは、蕪島に連なる岬の岩場に有ったものです。岩肌の色が白いのが特徴です。ここから先は蕪島になるのですが、ここから先は岩肌が赤くなります。 

 岬の白い岩肌が途切れると、数メートルの砂浜があります。ここで一息つき、そして赤い岩肌の蕪島部分の探索を始めました。今回は運良く一度に全てを見ることができましたが、潮の干満次第では見ることが出来ない部分もあったと思います。
第五地点

写真12 岩肌の色が変わる
 砂浜が終わると、すぐに横穴があります。この横穴は蕪島の赤い岩肌を貫通して反対側まで届いています。最も厚いコンクリート壁によって、両端が塞がれていますこのコンクリートもいつの時代のものか分かりません。
第六地点

写真13 蕪島部分の横穴   写真14 入り口は狭いが中の横幅はかなりある
 蕪島に入ってから十数m進むとまた横穴があります。これは写真2でも見えています。蕪島部分の横穴には、岬部分の横穴に見られたコンクリート構造物が全くありません。
第七地点

写真15 高位置にある横穴

写真16 写真15の内部 半分ほど入るとそれ以後は水浸し 写真17 内部から周防灘を見る
 この地点の横穴は、海面からの高さがかなり有るので、艇の格納庫として用いられたのではないのかも知れません。また、内部が水浸しになっているものばかりです。つまり奥の方がより低くなっているわけで、艇の格納は構造的にも不可能に近いと感じました。別の、詰め所などに用いられたのかも知れません。

写真18 蕪島の突端
 第七地点を過ぎてしばらくすると、蕪島の突端に辿り着きます。反対方向の探索に入る前にひと休み。
第八地点

写真19 突端から進行方向をみる
 突端を過ぎてすぐに横穴があります。ここも内部は水浸しでした。そしてここも、かなり高い場所にあります。
第九地点

写真20 何かの台座と横穴        写真21 写真20の横穴
 この第九地点の横穴の内部は、今までの中で最も急な坂になっています。そして入り口は海面から高く、しかもかなり離れており、中は水浸しです。
 写真20に、三つ並んだコンクリ基礎と鉄柱が写っています。私は戦後に設けられた標識台座だと思っていたのですが、レ艇関係者によると、これは艇の収納時に用いるウインチの残骸であるそうです。
第十地点(第五地点の裏側)

写真22 写真12で見えるコンクリ壁が見える
 蕪島を一回りして、島と岬の狭間にある砂浜が見える場所まで来ると、往路の第五地点で見た、蕪島の赤い岩肌を貫通している横穴が有る地点にたどり着きます。ちょうどその部分を撮ったところでフィルムが無くなりました。

 実は、この基地にレ艇が実際に配備されたことはなかったそうです。つまり、この施設は無駄となったのです。資源小国の大日本帝国が、最悪の戦況のなかで最も配慮すべきは人員動員、資材投入の無駄が生じないようにすることではないのでしょうか。あらゆるものを無駄遣いしながらするものが戦争だとはいえ、その無駄は状況を好転させるために有効なものでこそ納得がゆくのです。この施設は、本当に使用するつもりで構築されたのでしょうか?