大井海軍航空隊跡地・静岡県小笠郡布引原(牧ノ原台地上)


 静岡県下の大河は、西から天竜川・大井川・富士川が有名です。
 「越すに越されぬ大井川」と古くから知られる大井川、その中流域は牧ノ原台地にぶつかり大きく蛇行しています。その牧ノ原台地に、戦時中、大井海軍航空隊が置かれていました。
 大井海軍航空隊は偵察員を養成する練習飛行隊として開設された場所で、50機ほどの練習機が配属されていたそうです。
 現在も、わずかに当時の物が残っています。
●正門門柱(航空隊跡碑)

 大井海軍航空隊の正門門柱だったものです。形状はほぼ正方形でした。上のものは、海軍航空隊の印でしょうか。

 写真の左側、通行人の歩いているところにご注目下さい。
 撮影場所が航空隊敷地の手前、前方が敷地となります。
●隊門近くの煉瓦塀

 隊門門柱から少し離れた場所に、煉瓦塀が残っています。

 コンクリ製の土台の上に煉瓦塀が設けられています。

 敷地境界の塀だったのでしょうか。
●朝礼台(号令台)

 この辺り、一面の茶畑です。その中に、ポツンと当時の朝礼台が残っています。

 朝礼台の外面はコンクリと見えますが、土台には煉瓦が見えます。煉瓦にコンクリを打っているのだと思われます。
●電探講堂

 現在、航空隊の施設で唯一現存しているのが、電探講堂です。
 電探(電波探知機)の操作習熟のため、隊員の講義や実習が行われました。また、通信・射爆・電探の業務も行われていたそうです。
 
 戦後は米軍のダンスホールとして用いられたようです。現在は「農林水産省・種苗管理センター」となっています。
●「牧之原コミュニティーセンター」展示品
 練習機「白菊」エンジン・航空機車輪
 航空隊時鐘・航空隊看板・精神注入棒(笑)

 先ほどの指揮台・倉庫の辺りから少し離れた場所に、「コミュニティーセンター」が建てられています。庭には、航空隊当時の物が展示されています。

 これは練習機「白菊」のエンジンです。
 「白菊」は、「機上作業」専用の練習機でした。しかし安定性・操縦性に優れ、機内スペース・搭載力が大きいために、本来の目的の他に近距離連絡、輸送、対潜哨戒用務などにも使用されました。
 このエンジンは「天風一一型発動機」というもので、主に練習機に搭載され合計10000機以上に使用されました。

 まるでカットモデルのように内部が見えています。
 このエンジンは、静岡県清水市の折戸湾に約40年水没していたものを引き揚げ、戦後五十年記念として復元、ここに設置されました。
 昭和20年頃に、ここで特攻訓練中に事故を起こした機体のものだろうと言われています。

 細部撮影。

 エンジンの横には、おそらく当時の航空機車輪と思われるものが展示されています。しかし説明板などはありませんでした。
 左脇に「精神注入棒」、右脇に「航空隊の看板」が展示されています。

●時鐘(平和の鐘)
 車輪の隣には、航空隊で用いられていた「時鐘」が展示されています。
 これは、昭和17年4月より大井航空隊本部前に設置されていたものです。20年8月からは、「火災報知の半鐘」として第二の人生(?)を過ごしていました。

 センターの方に、元々はエンジンに付属していた部品だというものも見せていただきました。

 ……?よくわかりません。


●館内紹介コーナー

 牧之原コミュニティーセンター内には、講堂のような場所の壁に、航空隊を紹介するコーナーがあります。かような一文が掲げられていました。
「牧之原の、さらなる発展に向かって

 牧之原の原野が、いまから130年ほど前、旧徳川幕臣によって開拓され、以来、全国有数の茶産地として現在に至っている。
 そして戦後50年、いまや牧之原は大変革を遂げつつあり、有力企業の立地や、南部には東名高速道路のインターチェンジとサービスエリアが、榛原経済の一翼を担っている。
 さかのぼれば、1300年もの牧之原の歴史のなかで、牧之原を大きく変えたできごとの一つに、旧海軍大井航空隊の存在を忘れることはできない。由緒ある名所・旧跡がいまだにその名、形をとどめているのと同様に、かつての大井航空隊の存在を含めた地域の変遷の様子を、なにかの形で私たち地域の住民が後世に伝えていかなければならない責務を感じる。
 そこで、区民相図り、本パネルの完成を見た次第である。(後略)」

○大井海軍航空隊設立の経緯
 1939年、第四次軍備拡大計画のなかで、海軍航空隊の増加(14→75)がうたわれ、牧ノ原がその一つに挙げられました。1940年3月より用地買収などが始まり、1942年3月、飛行場の工事が完成。4月より大井海軍航空隊が開設されました。
 偵察員養成のための練習飛行隊が置かれ、約3000人の隊員が居た時もあったそうです。1945年4月からは特攻訓練も行われたそうです。

 当時は、司令部、病院、兵舎、倉庫、講堂など、40棟以上の建物が建てられていました。

 ちょっと興味を引く航空写真が展示されています。
 当時の滑走路に進入する情景を想起して撮影されたのでしょうか?

 最近まで残っていた機関科倉庫の写真が展示されていました。
 機関科は、大井川から水を汲み上げ、航空隊各設備へと配水する役割を担っていました。



 ここは海抜150mほどの台地上にあり、気流の関係でとても離着陸操作の難しい飛行場であったそうです。……実は現在、この近くの山上に「静岡空港」が建設中ですが、今の高性能機では問題ないのでしょうか……。