静岡市の繁華街から東に車で十分ほどのところ、ちょうどJR東静岡駅や静岡鉄道柚木駅の辺りに、静岡県護国神社があります。
以前に静岡陸軍墓地を紹介しましたが、それは本殿裏に見える谷津山の向こう側にある位置関係になります。
歩兵第三十四連隊跡地(現駿府公園)にあった建物が一棟だけ、跡地再開発に伴い護国神社内に移築されています。連隊の将校集会所として用いられていた建物だそうです。
連隊跡地の現存する唯一の遺構と思われます。

市川氏は明治六年二月十七日、静岡県磐田市生まれ。一高から東大工学部に進み、三十年七月に電気工学科を卒業。電気工学を修めた新鋭技術者だった市川氏は日露の戦雲急を告げるや、少尉の階級で勇躍征途についた。酒、タバコ、勝負事はいっさいやらず、散歩と読書を愛し、骨相学の研究が趣味であったという。
北方戦線の遼陽戦にのぞんだ市川少尉は歩兵第六連隊の二中隊小隊長として右翼を進み、首山堡北大山麓の敵塁に迫った。時の二中隊長は松井岩根であった。未明の攻撃命令に接した松井中隊長は最も信頼する市川少尉に鉄条網破壊を命じた。
松井中隊長は、水筒まで除いた軽装で出発しようとする市川少尉に、「水筒は持って行く方がよい」と声をかけた。少尉の「もうわずかな間だから水筒はいりますまい」という答えに、中隊長は思わず少尉の手を堅く握り武運を祈ったという。
少尉は幅十メートルに渡って鉄条網を破壊することに成功。午前九時、市川少尉は味方砲兵の攻撃が強まり、敵砲火が他方に集中しているのを看破して猛然と突進、石合戦の末に北大山の一角を奪った。一番乗りであった。敵は日没まで抵抗したが後に敗走。難攻不落の首山堡攻略の血路は市川少尉らによって切り開かれたのである。
七キロほど後方の第二軍総司令部に「市川小隊突入」の報告が到着した時、司令部をつつむ憂色は一瞬に吹き飛ばされ、快哉の声が沸き起こった。しかも一番乗りの勇士が一年志願兵の工学士と知った軍幹部は二度驚いたという。
奥第二軍司令官は偉功を全軍に布告し、中尉への特別進級の手続きを取った。少尉への感状は長文、異例のものであった。少尉に従って鉄条網を破壊した工兵上等兵らの上にも軍司令官感状が輝いた。
遼陽戦の後に松井大尉が参謀に転出し、市川中尉は新任中隊長として奉天戦に望んだ。この戦いで中尉はロシア軍を干洪屯に迎え撃ち、惜しくも散華した。銃眼に顔を寄せたとたんに右眼を貫かれ、さらに腹部に被弾したという。
市川中尉の最期の言葉は「干洪屯辛酸の模様を伝えよ、心残りはない」であったという。敵の重囲に陥る戦況下に、あくまで部下の危急を救いたかったのであろう。中尉の戦死を知って、重傷の身を横たえていた竹内連隊長、また第二軍司令官以下幕僚たちは軍の至宝を失ったと長嘆息したという。
東大総長山川博士は戦死の報を聞き「私を顧みず公に殉じた君はもって学徒の亀鑑とすべきである」と、銅像の建設を発起した。当時学内には「大学は学術の府であり、学術または大学に功労のあった人でなければ記念像を建てない建前がある」という反対意見も出たが、総長の英断をもって建設が踏みきられた(日露戦争で戦死した東大卒の学徒兵は二十八人に達した)。
明治四十一年十一月十一日、東京大学構内に静子未亡人らを迎え、一子一郎(七)の手によって銅像の除幕式が行われた。抜き身の軍刀をひっさげた市川中尉の銅像は新海竹太郎の手によるもので、動いている姿を表現した全国でも数少ないものであり、芸術作品としても優れたものであった。
この銅像は、東大職員の手により太平洋戦争時の金属供出を免れ、戦後は地下室に隠されて守り続けられた。
昭和三十二年八月に、銅像は市川氏の出身地に因み静岡県護国神社に移されることになり、連隊跡地(現駿府公園)から移築された静岡連隊の元将校集会所建物前に安置された。
(参考:「ああ、静岡三十四連隊」「歩兵第三十四連隊史」)