陸軍中野学校二俣分校
静岡県浜松市(旧天竜市二俣)
 静岡県浜松市の中部辺り、旧天竜市二俣に、戦時中は陸軍中野学校の分校が置かれていました。
 その分校跡地を探索してきました。

 静岡県西部の大河、天竜川が近くを流れています。

 写真中央やや左側に、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建っています。
 この辺りが分校正門だったそうです。平成17年春に整備し直され、展示物が新たに置かれ、それについての説明板が立てられました。
 旧天竜市役所が遠方に見えています。

 分校校趾碑です。これは二代目のもので、初代は木製だったそうです。
 新たに加わった展示物は、「渡河訓練船用錨」と「陸軍中野学校二俣分校笹岡工兵廠舎敷地境界杭」です。 説明板にはそれぞれ「この錨は明治末から大正はじめにかけ、陸軍師団豊橋18連隊の工兵隊員が大園地内で、天竜川架橋演習に用いた渡河訓練船用錨です。渡河訓練とは河川の本流(天竜川)に、鉄船を鎖で固定し横に並べ、その上に板を渡し架橋を作るものです。ここにある鎖は、当時使われていた貴重な一本です。現在は表面が錆びついていますが、当時としては画期的なステンレス製で造られた鎖です。」「この石柱は、陸軍中野学校二俣分校の笹岡工兵廠舎敷地境界杭です。」とあります。

 境界杭は、以前来たときには校趾碑の裏側に置かれていただけだったのですが、今回新たにこの様に展示されるようになりました。

 現在の分校跡地には、「浜松市保健所天竜支所」が建っています。

 保健所支所のやや西側には「若杉会館」なるものが建てられています。おそらく、このあたりも分校敷地だったのでは、と思います。玄関前には分校卒業生の小野田寛郎氏が講演されたときの記念植樹なるものが植えられています。
 さて、分校校趾碑を見て帰るというのも味気ないものです。昭和19年頃に二俣分校敷地全景を撮影した写真の撮影場所を捜してみようと思いました。

 これがその写真です。地元の方に見てもらいましたが、どうにも場所がわかりません。
 手掛かりとしては、敷地は長方形の平坦地である事、側をかなりの幅のある河が流れている事、橋が架けられている事、橋の側に小さな山があり、そこには鳥居がある事、が挙げられます。

 「かなりの幅のある河」「小さな山」「鳥居」と、キーワードが重なる場所は、一応、あります。
 ところが、ここは校趾碑からはかなり離れている場所なのです。
 地元の方によれば、校趾碑が跡地正門近くに建てられているというのは間違いない事のようで、どうにも釈然としません。
 結局、この日の内に場所の特定は出来ませんでした。帰路、天竜市図書館に立ち寄り館員に尋ねましたが、こちらでも分かりません。写真が撮影された昭和19年当時の地図はないだろうかと尋ねたところ、昭和10年頃の地図を捜して頂きました。当時、洪水を防ぐために行われた治水工事の図面でした。図書館員の機転に感謝です。

 これがその地図です。
 現在の地形はかなり変わっているのです。これでは見つかるわけがありませんでした。
 上の地図の関連部を拡大しています。
 旧来の曲がりくねった二俣川は頻繁に洪水を起こしていたために、曲がりくねった場所をバイパスするように川が掘られました。

 その後、元々の二俣川流域は埋め立てられ住宅地となり、細い川になってしまっています。
 また、分校敷地の写真に写っていた鳥居の見えた小さな山(秋葉山と呼ばれていたそうです)は、周辺が住宅地となる際に切り崩されて、完全に消滅しています。先にそれと勘違いしていた山は烏帽子山と呼ばれている山で、至近の距離ながらも、全く別の山でした。

 つまり敷地写真を見て、「敷地の側をかなりの幅のある河が流れている」「近くに橋があり、橋の側に小さな山があり、そこには鳥居がある事」という手掛かりを得たと思っていたのは誤りだったのです。とほほ。
 この昭和10年頃の地図には、「工兵隊廠舎」の敷地も記されていました。下の拡大図の上方に「笹岡」と書かれている所の周囲を土塁で囲まれた長方形をした敷地が、それです。

 長方形の平坦地である敷地の、当時の写真に写っている見え方に重ね合わせると、このような方向から撮影したことがわかります。

 長方形の平坦な敷地、当時は幅広かった二俣川、無名の橋、今はなき秋葉山、などの見え方もピッタリ一致します。
 再度跡地に赴き、当時の写真の撮影場所に似た眺望の所を確認し、現在の景色を撮影しました。

 今となってはあまり面影が重なりません。
 強いて言えば、保健所天竜支所の敷地形状が当時の地図と良く重なります。
 右下方に見えている建物が、小野田氏講演記念植樹のある「若杉会館」です。


 当時の写真の撮影場所を捜す途中、興味深い話を聞きました。
 校趾碑の背後の木造平屋は当時から残っている建物である、というのです。
 「陸軍二俣幹部教育隊」という看板が掛かっている当時の写真に写っている平屋が、これにあたるのかも知れません。屋根の角度が異なるようにも見えますが、撮影角度のせいか?うーん、どうなんでしょう?