グアム戦略記
(別冊歴史読本戦記シリーズ31「太平洋戦争戦闘地図」より転記) 
 西部太平洋地域に大日本帝国が進出したのは、第一次大戦後の講和条約により独領南洋群島が帝国の委任統治領とされたのが始まりである。その中に、1898年に米西戦争の結果米領となっていたグアム島は孤立した格好になっていた。
 真珠湾奇襲攻撃前の1941年12月4日、小笠原列島母島に集結していたグアム占領部隊約3000名はグアムに向けて出撃した。7日夜にグアム島近海に到着、真珠湾奇襲攻撃直後の12月9日早朝より上陸作戦が開始され10日夕刻には戦闘は終了した。当時の米軍守備隊は軍人約400名を含め700名前後、ほとんど抵抗はなかったという。
グアム島各地には日本語名が付けられた
(左図は別冊歴史読本戦記シリーズ31「太平洋戦争戦闘地図」より転記)
 1944年6月頃より、西部太平洋に日本本土空襲の前進基地を確保しようとするマリアナ侵攻作戦が展開されており、グアム北方のサイパン島は7月9日に攻略された。これに引き続いてグアム島奪還作戦が開始された。参加兵力は約55000名といわれる。
 「W day 」と呼ばれた7月21日午前4時30分頃、上陸前の艦砲射撃がはじまり、数百機もの米機が空襲をかけた。6時頃には西岸沖に戦艦をはじめとする米艦艇百余隻、輸送艦二百隻以上が姿を現した。7時30分、西岸のアサン海岸・アガット海岸の二地点に上陸を開始し、二地点に挟まれているオロテ半島北部の拠点に向けて侵攻を始めた。
アサン海岸・アガット海岸
機上よりアサン海岸、更にアプラ湾・オロテ半島を望む
 21日前日まで約40日間にわたり砲爆撃が続けられていたにも関わらず、日本軍守備隊は米軍の上陸直後から猛反撃を始めた。米軍の正面上陸部隊はこの反撃を打ち砕くことが出来ず、死傷者1000名以上の損害を被った。アガット海岸ガン岬のトーチカは特に頑強で、後方からの戦車攻撃によってようやく破壊された。しかしながら、上陸初日の戦闘でグアム島守備隊の約8割近くの将兵は戦死した。例としてアガット海岸では、守備兵力の3000名のうち夜間の反攻後に後退できた生存者は110名に過ぎなかった。
図:21日のアガット海岸部の戦闘
(別冊歴史読本戦記シリーズ31「太平洋戦争戦闘地図」より転記)
 24日、アサン・アガットの海岸部はほぼ米軍によって確保された。夕刻、アサン海岸奥の山間部に司令部を置いていた守備隊は大本営に対して訣別電を送り、25日真夜中に海岸部に向けて総反撃をかけた。結果、約3000名の戦死者を出し、生き残りの日本兵は北部へと敗走した。グアム島守備隊の組織的戦闘はこの攻撃で終わりを告げた。
図:25日夜のアサン海岸部への総反撃
(別冊歴史読本戦記シリーズ31「太平洋戦争戦闘地図」より転記)
 「W day 」から20日間の戦闘の結果、日本軍の防備陣地のほとんどは破壊され、8月10日にグアム島の占領が宣言された。小畑軍司令官をはじめとする主な指揮官らは、島北部の又木山で8月11日に自決した。
又木山戦闘司令部壕跡
又木山は南太平洋戦没者慰霊公園として整備されている
 グアム奪還のために米軍は約7000名の死傷者を出した。日本軍の兵力は約20000名と言われているが、収容所に収容されたのは1250名余りであった。当時グアムには邦人約300名、現地住民約24000名がおり、彼らも戦闘に巻き込まれた。 又木山の東、高原山に避難した邦人の婦女子たちは自殺を強要させられている。西海岸バンギ岬には、敗走中の日本兵に虐殺されたグアム島住民チャモロ人の慰霊碑が建てられている。犠牲者数は正確には把握されていない。

 1978年、米議会の決議によって、『第二次世界大戦の際に太平洋で作戦に参加した者の勇気と犠牲を讃え、またグアム島の素晴らしい自然環境と歴史的価値の産物を現在及び将来に渡り保存維持していくことを目的に』ガン岬をはじめとする米軍が上陸した海岸などは「太平洋戦争国立歴史公園(War in the Pacific National Historical Park )」として指定された。

 
太平洋戦争国立歴史公園パンフレット類・写真はアガット海岸ガン岬

付・戦闘状況
(別冊歴史読本戦記シリーズ31「太平洋戦争戦闘地図」より転記)
「7月21日の戦闘状況」
◎アガット湾(昭和湾)の戦い
米兵力は一個師団並、日兵力は約3000名。(歩兵第38連隊)
午前9時頃、第一線が撃破される。第一大隊はほぼ全滅、第二大隊も過半数を失う。
同日夕方までに米軍は昭和町北端〜有羽山西麓〜香生崎にわたる間に進出。有羽山の連隊本部は、夜間全兵力をもって反撃を行うことに決定。
午後9時頃、第三大隊は竹矢付近の米軍第一線を突破し海岸に迫るも壊滅。午後10時30分、連隊残存兵力は有羽山西部の「海軍砲台北側」の小さな丘まで進出、ここで壊滅。連隊長戦死。後退できた生存者は110名。
◎西岸のアデラップ(見晴)〜アサン(浅間)岬間の海岸(アサンビーチ)の戦い
日本兵力は独立混成第48旅団、独立混成第10連隊。21日の緒戦で半減した兵力で夜襲をかけてほぼ壊滅。
「7月25日の戦闘状況」
◎「この夜は月はなかった。照明弾が煌々と戦場をあまねく照らし、曳光弾が吹雪のように舞っていた。予備隊は散開して、一気に青葉山北側斜面を駆け下り、山麓にある河溝まで到達するように命じ、大隊長も、私も駆けだした。……やがて、手榴弾が敵陣に炸裂する。軽機が火を噴く、予備隊が一気に突入して、敵陣の一角はくずれ去った。間髪をいれず第二陣の攻撃にとりかかったが、敵の撃ちまくる機銃弾の前に部隊はくぎづけになってしまった。さらに敵は攻勢に転じ、今度は手榴弾の雨だ。……」(歩兵第十八連隊山下少尉の手記)