給水塔跡地について
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給水塔について
 小倉工廠内の作業水と、上水道整備の目的で昭和6年に建設されました。水源は、傍らを流れる紫川です。この地が陸軍工場とされたのは、工業用水の採取が容易であることも考慮されてのことでした。
 給水塔自体の起工は昭和5年8月、竣工は昭和6年3月です。昭和2年に東京工廠を小倉に一部移転することが決定した直後のことで、この地に大規模な軍需施設を建設するための準備であったと思われます。
 上水道は、既に「地下道」整備に伴い、昭和5年に完成していました。この接続部分に、「給水塔」と「地下道」を繋ぐ「枝道」が有ったのではないかと想像され、現在、市民団体によって調査が行われています。 
給水塔のあった位置

地図
 「外周」のところで紹介した「木町門」「新木町門」の付近です。
 上の地図は昭和58年くらいのものですから、建物はだいぶ様変わりしています。また道路も整備され、一部変更されています。 
給水塔跡地

写真1 南側から見る。給水塔は、正面の丘頂上に立っていた。
    取り壊し工事の際にショベルカーが通った道の部分だけが木々が切り開かれている。

 現状は上の写真のとおり。荒れ放題に荒れ果てています。これは取り壊された後だから、というわけではなく、現存していた時も変わりありません。当時の写真は下の方にあるので比べて見て下さい。
 遠くから見ると、雑草雑木が生い茂り、何も見えません。洒落にならないルートで跡地に近づくと、わずかながら、往時を偲ばせるものがありました。

写真2 基礎部階段  写真3 上部階段 この上に塔が有った
 写真2、3ともに跡地丘の北側に有ります。塔が残っていた当時は、わずかに人が訪れていたようで、あまり苦労せずに辿れた道でした。今は、はっきりいってたどり着くのは至難です。特に夏場はあきらめましょう。ヤブ蚊の襲来は恐ろしいほどです。カメラを構えた左手に、同時に6匹が止まった時もありました。

写真4 送水管を覆う壁
 写真3の階段の直下に、写真4の壁があります。この中に送水管があります。

写真5 送水管の水栓?
 送水管の、給水塔跡地に最も近接した場所に、水栓と思われるものが残っていました。
 
写真6 送水管(水栓直下)     写真7 送水管二股部
 送水管は、写真6から始まり、写真2の階段の右横を平走して高台斜面を降りていきます。写真6部分は二股になっているのですが、用途は不明です。これら送水設備が、戦前のものかどうかは不明です。


昔日の給水塔

写真8 給水塔     写真9 南側から
 写真8の、上部の張り出し部分には、空襲が激しくなったころには高射砲が備えられていました。
 基礎部の丘の高さは5メートル、給水塔本体は15メートル、写真9・10から見ると、約20メートルの高さがありました。

写真10 北側から
 写真10は、勝山丘陵台地の上から撮影しています。紫川低地部分から見れば、30メートル弱の高さとなり、造兵廠廠内を一望できるため、監視塔としての役目も持っていたそうです。
 写真10左側の建物は、東京小石川陸軍造兵廠から移転された「銃身工場」です。この工場も、かなりに貴重な遺構だったのですが、数年前に取り壊されました。

給水塔保存運動について …給水塔保存推進会議パンフレット参考…
・・・・・運動の発端
 この土地は、大蔵省から無償貸与(建物は無償譲渡)されていました。
 市水道局は、給水塔を昭和47年まで水道施設として使用していましたが、その後使わなくりました。そのため、法律的に、平成8年1月31日までには「現状復帰(さら地化)して返還」する必要が出てきたのです。
 これを受け、市は、関係各局に利用計画が無いか照会、その結果「計画は無い」として解体を決定しました。市議会で解体が決定されることを聞き、「給水塔保存推進会議」が結成され、保存に向けての運動が開始されました。
・・・・・保存の意義
 この時点で、「周囲を公園化して、記念碑として保存する」という方向での解決策が考えられていました。これは、次の理由によります。
1土地の特異性
 ここは、江戸時代に「小笠原藩分家屋敷」がありました。東側の小山は、小倉城の土塁跡です。江戸期の小倉城外側土塁が現存しているのは、今ではここだけです。その後、現在の大手町一帯は陸軍の練兵場となりました。跡地は、練兵場の南端に位置し、その性格上、開発などによる破壊が加えられることなく大正・昭和期、そして更に平成期を迎えることが出来た極めて希な土地です。東側の土塁跡などは、原生林の感すらある、鬱蒼とした森になっています。
 また、森鴎外が明治32年から3年間、軍医として小倉に滞在していましたが、伝染病防疫の観点から見て、上水施設をこの地に建設するよう選定した、と伝えられています(20年以上の間隔があるので、この由緒は多少疑問です) 。
2建築物の特異性
 昭和初期の建築物として当時の最先端技術が取り入れられていること、また鉄骨造り、鉄筋コンクリート造りとしては国内でも初期のものでした。軍事施設内の建物としての威容もかなりのものです。給水塔上部の張り出し部分には、空襲が激しくなった頃には、機関砲が備えられていました。
3平和教育の教材として
 平和教育のための、現存の教材としての保存価値が高い。
 ……これらの理由により、「現地に、現状のままで保存する」ことの意義は、非常に大きかったのです。

写真 給水塔は丘の左部分、平地がわずかに覗く場所に有った
   撮影場所は小学館文庫「原爆の軌跡(ポールサフォー)」を参考にした
・・・・・運動の経緯
 街頭宣伝運動中、大蔵省福岡財務支局小倉出張所との交渉の中で、「市が給水塔を平和のシンボルとして保存・整備し、東側の森を含めた平和公園として利用計画の申し入れがあれば検討する」との回答が得られていました(7月5日)。 公園化への推進を意味する、「市水道局から市長部局への所管変更」を何度か市長に要請するも受け入れられないまま議会は閉会し、その後、解体作業が着手されます。
1995年(平成6年)
  5月29日「給水塔保存推進会議」準備会開催
  6月11日街頭宣伝行動を開始
    18日「給水塔保存推進会議」結成式
    29日北九州市議会議長に陳情書提出
    29日市長に要請書提出
    30日・・・市委員会、陳情書不採択
  9月29日・・・市議会閉所、6月30日の陳情書不採択が正式決定
 10月 3日・・・給水塔解体準備作業着手
     5日・・・市長、解体方針を言明
    14日・・・解体開始
     同日座り込み運動開始
    30日・・・一部保存の方針が決定
     同日座り込み運動終了
 11月 1日・・・解体工事再開
 工事が続行されることを防ぐため、車両の侵入を妨害する座り込みが開始されました。市当局の退去命令や、交渉中の抜き打ち工事再開など、激しい交渉が交わされた結果、「大手町内への一部移転保存」という方針に変更されました。
 保存部分は、上部張り出し部分、全周の12分の1ほどです。まだ移転保存場所が決定されずに現在に至っています。

 北九州市は、昭和62年に「北九州市史」という市政記録を編纂しました。その中の重化学工業の項目に於いて、旧八幡市の官営八幡製鉄所と比肩するものとして旧小倉市の陸軍工廠を紹介しています。しかしながら、その中では給水塔に関する記述は一切ありませんでした。 市側には、給水塔に関する情報が全くといって良いほど無かったのかも知れません。 


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