投下!
〜小倉上空10時44分〜
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 1945年8月9日午前10時44分、B29ボックスカー号は小倉造兵廠上空に到達しました。新型爆弾を納めた爆弾庫扉はすでに開かれていながら、しかし遂に投下出来ませんでした。 そして一時間後、小倉の代替地として長崎が壊滅します。小倉と長崎と、その命運を分けたのは、いったい何だったのでしょうか?
 二都市の状況を見比べる資料として、最近見つかった原爆部隊の資料が あります。それを研究されている、徳山工業高等専門学校土木建築工学科教授、工藤洋三氏の講演が、平成10年8月9日に小倉で開かれました。氏の講演を参考にして、二つの都市の状況を比較してみました。
掲載の許可および助言を戴きました工藤氏、ならびに氏の共同研究者である奥住喜重氏に感謝いたします
当日の講演は、工藤洋三・奥住喜重,『原爆投下の経緯』,東方出版,1996年 に基づくものです
──小倉について──
 小倉を取り巻く状況は、幸運としか言えない事ばかりが起きています。運命というものとは実に不思議なものだと思わざるを得ません。小倉を救った出来事をまとめてみました。
1・前日に八幡空襲があった
 日本にとって、B29爆撃機は実に特別な存在であると思います。中国四川省の成都基地から飛び立ったB29が日本への初空襲を行ったのが1944年6月16日でした。爆撃されたのは八幡製鉄所(旧八幡市)を中心とした地域で、ここは小倉造兵廠(旧小倉市)より西側に、たった7kmほどしか離れていない場所でした。この日付と場所が大きな意味を持つことになります。
 この初空襲は、アメリカ陸軍航空軍にとって非常に意義深いものだったようで、1945年6月、航空軍はその一周年を記念して同地への記念爆撃を企画します。6月16日、マリアナのテニアン基地では、B29爆撃部隊への爆弾(焼夷弾)搭載も済み、八幡製鉄所を目標とする空襲の準備はすでに完了していました。しかし離陸寸前、天候の理由で目標が大阪尼崎へと変更されたのです。非常に大規模な、記念爆撃にふさわしい規模を計画していたようで、この日、大阪尼崎は壊滅的被害を被りました。
 そして、妙に情緒的で可笑しい話ですが、航空軍は「八幡への記念爆撃」を諦めずにその後もしつこく機会を窺います。そしてやっとその好機が訪れたのが1945年8月8日だったのです。この二日前には、広島に一発目の新型爆弾が投下されています。そして二発目の第一目標候補である小倉市に対しては、通常爆撃を厳禁する命令が以前より出されていました。しかし、たった7kmしか離れていない、ほとんど同じ地域といってもいい八幡市に対しては爆撃禁止命令は出されていなかったのです。
 新型爆弾の爆撃部隊は、その目的を厳重に秘匿された秘密部隊でした。テニアン基地においても、他の通常爆撃部隊との情報交換などの交流は一切なく、通常爆撃部隊には、9日に小倉に新型爆弾が投下される予定であることなど全く知らされていませんでした。もしも情報交換などがなされていたら、おそらく8日の八幡爆撃は中止されていたでしょう。そして快晴の9日、八幡からは小倉上空に立ち昇るキノコ雲が見えたのではないでしょうか。しかしながら八幡は予定通り爆撃され、それによって生じた火災の煙は翌日まで消えませんでした。翌9日、小倉上空に飛来したボックスカー号機長はこのように記録しています。──10時44分 目標は地上の濃いもやと煙に隠されていた──
2・爆撃部隊が遅れた
 8月9日午前10時15分、ボックスカー号は屋久島上空で随伴機を待って旋回を繰り返していました(この特徴ある島は、はぐれた随伴機との会合地点になっていました)。随伴する二機のうち、一機とは5分後に出会いましたがもう一機がなかなか現れないからです。
 爆撃部隊は、爆弾搭載機と写真撮影機、そして気象観測機の三機で構成されていました。観測機は、攻撃予定の一時間前に目標の上空で気象情報を得て、搭載機に連絡する任務を持っています。新型爆弾投下にあたっては、完全目視による投下が厳命されていたため、天候の確認をしてから目標を定め、進撃することになっていました。その観測機は既に目標に向けて先行し、ボックスカー号は撮影機をじっと待ち続けます。無線によって得られた気象状況は「小倉、低い雲3割、中高度、高度の雲は無し」「長崎、好天だが雲量増加中」……目標選定をする機長に、前日の八幡空襲の影響が伝えられていたかどうかは不明です。
 ボックスカー号機長は目標を小倉に定めました。そしてなかなか現れない撮影機との会合を諦め、小倉に向けて進撃を開始します。ここで予定時間をかなりオーバーしてしまいました。遅延時間、約45分。この遅れがなかったら、八幡空襲の煙ともやは、どのように小倉上空を覆っていたのでしょうか?
3・投下条件を厳守した爆撃手
 貴重な新兵器の投下を万が一にも失敗しないために、投下に際しては厳しい条件が付けられていました。放物線を描いて落下していく爆弾の軌道を予測し、全て計算ずくの状況が設定されていたわけです。必中させるために、機長は機を同じ高度、同じ速度を保ちつつ、目標に対して一直線に侵入します。そして爆撃手は、この直線飛行の間に投下目標(照準点)を目視確認して投弾するように計画されていました。つまり、ボックスカー号は敵国の軍都上空で、高度9400m、時速320kmで約70kmの距離を直線飛行(この飛行を爆撃航程といいます)しなくてはならないのです。
 10時40分、ボックスカー号は大分県姫島上空から爆撃航程に入りました。約4分後に小倉上空に侵入──。しかし爆撃手が照準点の目視確認に失敗します。「地上の濃いもやと煙」によって、この時、かろうじて造兵廠内の投下目標は覆い隠されていたのです。
 投弾の機会を逸したボックスカー号は、そのまま、虚しく目標直上に達しました。すると、真上から見れば、ちゃんと目標が確認出来たのです。機長は「侵入角度を変えて、よく観測すれば、爆撃航程中でも目標を捉らえられる」と判断し、小倉上空を離脱し、ふたたび危険な直線飛行による爆撃航程をやり直します。
 第一回目の侵入角度から120度角度変更、再侵入──失敗。また角度を変えて再侵入──失敗。計3回失敗してしまいました。この間の約45分間、爆撃手の指は投下ボタンに何度も掛けられたことでしょう。後日、小倉への投下失敗について、「十分な爆撃航程が取れなかったこと」「照準点の目視が出来なかったこと」が理由として報告されています。つまり一回目の失敗は爆撃手の目視失敗によるもので、二、三回目の失敗は機長が爆撃航程を短縮してしまったことと爆撃手の目視失敗によるものだったと想像できます。
 しかし、目標方向への侵入自体は目視により可能だった事から、後の長崎と比べればかなり好都合な投下条件だったことは明らかです。もしも爆撃手が、照準点辺りに適当に見当をつけて投下ボタンを押していたら……。ありふれた空想ですが、想像を逞しくする事は非常に困難です。実は小倉造兵廠内のどの地点が、その「照準点」だったのか現在では確認できていません。爆撃手が厳密な投下条件に縛られていたために救われた小倉、その幸運の地点がどこなのか、今、誰にも解らないのです。
 
 現在、市立中央図書館敷地内には、この経緯を記念する平和希求の碑が建てられています。中央図書館は、昭和20年当時造兵廠本部が建っていました。写真の鐘は「長崎の鐘」と呼ばれるもので、この碑の前で毎年8月9日の長崎原爆記念日に、投下時間に合わせて慰霊祭が取り行われます。
──長崎について──
 新型爆弾は、12時02分に長崎上空で遂に爆発します。この長崎は、小倉に比べて実に不運な状況にありました。まるで被爆のために残されていたかのようです。
1・米軍の大都市爆撃目標から外された
 長崎の造船産業は、当初の戦略爆撃では当然目標とされていました。実際、1944年8月11日には中国からB29が飛来して爆撃しています。しかしその後、45年3月からの「大都市を目標とした焼夷弾空襲」が始まると、兵器産業関係への空襲は後回しとなっていったのです。地形的に山が迫っていてレーダー観測が効かない長崎は、なおさら空襲を受けなくなってしまいました。
2・兵器工場爆撃期間中に無傷だった
 兵器産業地への空襲は、45年6月20日以降に集中して行われ始めました。長崎は造船所などがあり、当然狙われるはずの都市でした。しかし爆撃されません。それは幸運な出来事のはずでした。7月までは。45年7月下旬、新型爆弾の目標候補から外された京都の代替都市が選定されました。その不運な都市が、その時点まで「幸運にも」無傷でいた長崎だったのです。
3・反対は押し切られた
 長崎は、山と海が複雑に入り組んだ、平地の少ない地形です。この地形では、新型爆弾の破壊力の限界がわかりません。どこを目標地点としても、破壊予想半径内に建造物が何もない地域がかなり含まれてしまうからです。多分に実験的要素を含んでいた新兵器の投下目標として不適切であり、いわば選ばれるべきでない都市でした。
 広島、京都、小倉は、まったく理想的な投下目標都市の形をしていました。つまり、
 1・破壊予想半径の3kmが市街地にスッポリ入る。
 2・適当に建造物が多く人口が多い。
 3・テニアン基地から近い。
 という条件を完全に満たしています。
 三都市以外に新潟も候補地として挙げられた時期もありましたが、新潟はテニアン基地から遠く、目標として貧弱なため、7月までには除外されていました。突然に長崎が候補地に入れられた後も、その不規則な地形を考えて、常に第二、第三候補とされていました。「なぜ京都でなく長崎なのだ」と、米軍部内でも長崎を目標とすることを不満とする考えが多かったそうです。 爆撃部隊の責任者である少将が、ポツダム会議に出席中のトルーマン大統領に「京都を爆撃させて欲しい」と直訴したほどです。
4・小倉では投下されなかった
 小倉では、投下に際しての厳命「完全目視下において照準、投下する」を守り、3回試みたあと、投下を断念しました。機長はテニアンに戻るのか第二目標の長崎に向かうのかの選択に迫られ、そして長崎への飛行を開始します。
5・厳命を無視して投下された
 ボックスカー号が長崎上空に到着したころには、すでにかなり雲量が増加してしまっていました。目標(市街地)へと接近するにも、目視がほぼ不可能で終始レーダーを使用しなければならないほどでした。目標上空に達しても、数秒間しか目標を確認出来なかったと報告されています。もちろん、厳命に従えば投下を断念するべき状況でした。しかし、このまま帰ると、原爆を積んだまま着陸することになります。どのような不具合が生じるのかわかりません。さりとて海上にて投棄するなど論外です。下手をしたら、これが最後の一発なのだから。11時50分に長崎上空に到達……投下をためらいつつ飛行中、小倉では厳命を厳守した爆撃手は、わずか20秒間だけ雲間から現れた工場地帯を目標と認め、11時58分に爆弾を投下します。
 マニュアルにない状況での慌ただしい投下……約1分後、目標地点から大きく3kmほど北に外れて新型爆弾は爆発します。3方に山が迫る、非常に狭い地域でした。本来の目標は市街地ど真ん中、実際は、そこが原爆被災範囲の最南端となったのです。

 アメリカ軍の情報、資料を基に当時の出来事を探ると、自分がそれまで持っていた判断基準があやふやになってしまう時がしばしば有り、実に奇妙な感覚を味わうことになります。そうなる度に思うのは、私は所詮日本人の視点しか持ち得ないのだということです。小倉にて開催された講演を聴いているうちにも、何回かそのような逆転感を感じたことを思い出します。 文中で、米軍の使用した時刻(テニアン基地のあるマリアナ時間)を用いているのは、その感覚を再確認したかったからです。御了承下さい。

 最後に、本ページの制作にあたり、講演内容掲載についての許可および助言を戴きました工藤氏、ならびに氏の共同研究者である奥住喜重氏に感謝いたします。 



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当日の工藤氏の講演は、「工藤洋三・奥住喜重,『原爆投下の経緯』,東方出版,1996年 」に基づくものです。