200311月の トンテンカン劇場

2003/11/30(日)『私の図書館人生』

最近時代小説にこっている友人が、「池波正太郎の「剣客商売」は面白かった。「鬼平」はこれから」というので、「ぜひ!」と勧めておいた。私が読んでない藤沢周平は、どうも暗くって…(そうなのか。映像では評判いいんだけどね)。吉川英治の「武蔵」は小説は面白い(そうかなあ…?)でもなんといっても「鳴門秘帖」がサイコ〜!そう。「鳴門秘帖」はサイコーなのっ!(「新平家」と並んで^^;)

むかしNHKの金曜時代劇でやったんだけど、面白かったなあ。田村正和が主役の法月弦之丞で(のりづきげんのじょう、名前からしてカブイている。職業は公儀隠密)、ヒロインは原田美枝子?池上季美子だっけ…?そうこうしているうちに衛星で大映映画の「鳴門秘帖」を放映して、主役が長谷川一夫で(この人の厚塗り、どうもダメだ)、市川雷蔵が敵役の二枚目で出てきてめちゃカッコ良かったんだけど、なんだか話が違うなぁ。雷蔵の役は原作には無かったような気がする。ナントカ一角はどこへ行ったんだ?と考えているうちに読み返したくなって図書館へ行ったら、吉川英治全集の左のちょっと下の棚に森茉莉全集(新潮社)があって、「ドッキリチャンネル」。うわ〜っ。こんなもの、全集に入ってるんだ!79年から85年くらいまで毎週「週刊新潮」に連載されていたTV批評ですが、掲載時は読んでいなかった。あのころは花田編集長率いる「週刊文春」が元気がよくて面白くて、「新潮」はちょっと年配向けというカンジだったのだ。
ナイトキャップにいいかも、と借りて読み始めたら、面白い! (「鳴門秘帖」はあまりにたくさんの人が借りたらしくて黄ばんでシミだらけだったので、借りなかった。そのうち新しく買おうと思っている)

もちろん私はかつて彼女の「枯葉の寝床」「贅沢貧乏」(「オーディオ貧乏」はここからいただきました)を熱狂して読んだ人間で、すっごく久しぶりに森茉莉を読んだんですが、この人の文ってとんでもないところに句読点を打って、メチャクチャ悪文ですねぇ。でも読んでるとものすごい推進力があって、「そこのけ、そこのけ。お茉莉が通る」って迫力に圧倒される(笑)。ホント、ヘンな人だ、と改めて感動してしまいました。

タモリはキライとか、あの役者はイイ、このキャスターはキライとか、不変の森茉莉に(この時80くらい…)、刹那のTV批評をさせることを考えついた「週刊新潮」のセンスは大したものだけど、森茉莉をご機嫌な気分にさせて、机に向かわせて、原稿を書かせるための編集の苦労は並大抵のモノじゃなかったろう。この人と波長を合わせられたら、ほかのどんな難しいセンセイともやっていける!というお墨付きをもらえたに違いない。

永遠のファザ・コン作家はTV批評をしながら、ことあるごとに父、森鴎外の思い出話をするんですが(母や兄弟たちや息子たちのことも)、この父親ときたら、17歳で結婚した彼女が「夫がフランス留学して一人で寂しい」という手紙を出すと、「人生とは楽しみをいろいろなところに見つけて暮らしていかなければならないんだよ」とさとす返事を巻紙に筆で出して、それに白スミレの押し花を同封するような男である。
白スミレですよ…、絶句しちゃいましたよ、もう。
こういう人をパッパに持つことは、のちのち大変なこともあるようだが、やっぱり幸せだったんだろう。こういう人を夫に持つことも(彼女の母親のように)幸せかもしれないが、離婚というリスクがある(ドイツ留学時代に彼を愛して、日本まで追ってきて、親族たちに追い返されたエリスのように)。「絶対無条件の愛」で愛される子供であるというのは、けっこういい位置かもしれない。
彼女がフランスにいた18くらいの時にパッパは亡くなるのですが、それからもパッパは彼女の記憶の中で彼女を愛し続けて一緒に生きてくれました。

鴎外も母親も二度目の結婚だったそうで、そのせいか彼女の回想の中の家族の風景には思いやりにあふれた静かな時間が流れていて、明治、大正、昭和初期にはこういう家族があったんだろうなあ…。ほんの少数ではあったろうけど…。

父親の七光りだけで作家面してる、永遠子供のヘンなおばさんと片付ける人も多いだろう。境界線上にいる危なっかしい作家だと、私も思う。でもこの人の生き方や感性に触れると、迷っているときに「あっち」とか「そう(肯定)」とか道を指し示してくれるような気がして、ついこの人を人生のタリスマンTalisman(魔よけ、お守り)にしたいと思ってしまう。
タリスマンとは常にいかがわしいものなのです(笑)。

ヘンなおばさん、ということで先日フジで放映されたフジ子・へミングのドキュメンタリー・ドラマを思い出してしまった。
今さら「奇蹟のカンパネラ」の売り上げアップに協力してど〜するんだ、と見る気もなくTVを付けていたら、この二時間ほどのドラマはすごく面白くて、いつのまにかTVの前に座ってラストまでしっかり見てしまった。

戦前にピアノを勉強するためにヨーロッパに渡った日本女性とスウェーデン人の夫婦の子として日本で生まれたフジ子は、小さい頃からピアノ・レッスンを受けてピアニストを目指す。戦後の混乱の中で留学を望むが、「国籍」が無かったためにその道を閉ざされる。やがて「難民」として彼女はヨーロッパに渡るが、ヨーロッパでも苦労して…というこのTVドラマの脚本には起承転結とか序破急とかいうドラマツルギィがまったく無くて、ただ彼女が現実とぶつかってははね返されて、うちひしがれて、あがいて、やがて立ち上がって…という生き方を、フジ子さんとはまったく似ていない管野美穂ちゃんが目の前で繰り返すだけなのですが、見ているうちにいつの間にか血が沸き、肉踊り、興奮してしまうという不思議なドラマでした。
最初ぜんぜん似てなかった(しかもピアノを弾くのが下手な^^;)管野美穂ちゃんは、屋根裏の汚い部屋でバサバサ髪をアップにしたり、民芸調のスカートやカーディガンを着て石畳みで転んでわめき散らしたりしているうちに、どんどんフジ子さんにそっくりになっていって、最後はフジ子さんそのものになっていました。

ドラマとしての面白さじゃなく、画面に流れるある感覚にひかれて二時間ずっと見続けたんですが、これは女性の感覚だなあ…と思いながらラストまでいって、クレジットを見たら企画プロデューサーも脚本もほとんどのスタッフが女性でした。そういえば彼女のドキュメンタリーを最初に作ったNHK教育のスタッフも女性だったときいた覚えがある。
確かめていないけど、たぶん衣装も女性だったろう。レースや刺繍やフリルを多用したハンガリーのお人形さんみたいな”フジ子ルック”をTV用にファッショナブルに「アウフヘーベン」したあんな服が着たい…!と、そのあとしばらく私は、よれよれのカーディガンを着てだらだらのロングスカートをはいて髪をばさばさにして、買い物に行っていました(笑)。
フジ子さんの音楽は、彼女の人生や、その生き方が刻まれている彼女のピアノの音を、自分の人生のタリスマンTalisman(魔よけ、お守り)にしたいと思う人たちに支持されているから、こんなに人気があるんだろうなあ。

タリスマンはこの世界の「現象」を超えて支配する力ですから、とうぜんダークサイドの力も持っています。
それが典型的に顕れたのは「東電OL」でしょう。
去年からニュースで「東電」の名前をよく聞くようになって、その度に、ああ、彼女が働いていたのはこういう会社だったのか…。
必死で働いてふと気が付いてまわりを見渡すと、臭いものにはフタ、危ないことは見ないフリ、起こったトラブルは無かったことにする、定年で天下り先が決まるまで。若い者も彼らに逆らうと出世できないと知ると、同じことをして彼らに取り入る。そういう世界に自分は生きている。
彼女が毎日会社で嗅いでいた臭気と、なにもできない、自分の居所がないという閉塞感は、たぶん今日本の会社で働いている女性たち(そして男性たち)に日常的な光景でしょう。
自分にはこの会社を変えられない。この会社での出世も、たぶん無い。いったい何のために働いているんだろう?そもそも働くことすら歓迎されていないのに。さっさと辞めろというなら、お望み通り結婚して主婦になろうか? しかしそれは原子炉にヒビが入っていても、報告書に「異常なし」と書き込む男のためにごはんを作って、その子供を生むことだと知っている。
出口がないところまで追いつめられた東電OLに、新宿や渋谷の繁華街の光りと闇は、現実を超えるエネルギーと慰めを提供する。
東電OLのドキュメンタリーを書いた佐野眞一さんは「自分はこの仕事に向いていない」と自分で仰っていましたが(「冤罪」ルポになっててね〜と「JUNE」のSさんがいっていたので、読まなかった)、適任者というなら高村薫以外に思い付かない。「グロテスク」は図書館で予約数91だったので諦めた。たぶん来年くらいには読めると思う… 。

明治維新以来、西洋にならって急激な近代化を取り入れ、それを成功させたツケとして、日本はこれから世界史がこれまで経験したことがない急激な老齢化に入ります。ここ数年、バスに乗ったら入り口の階段を登れないおじいさんとか、買い物に来て道路のはじで休んでるおばあさんとかを見ることがふえて、そのたびに手をさしのべるんですが(はは)、私は少子高齢化がすべて悪いことばかりだとは思わない。一人っ子同士のカップルが結婚したら、家をふたつ受け継ぐ。土地の値段も下がるだろうし、住環境も良くなるだろう。
でも私は、昔のことがゼッタイだと思っている老人、我慢するのが当たり前だと思う老人、自分もやってきたことなんだから若い人も我慢しなさいと縛る老人、好奇心をなくした老人、もう年なんだからとおしゃれもしない老人が大キライだ。
そういう人たちが(若くても「老人」な人はいる)町を埋めている光景を想像すると、それはうっとおしくて、そんな町にはぜったい住みたくない。
森茉莉やフジ子・へミングのような「おばあさん」が増えれば、いや。私たちが彼女たちのように年老いることができれば、ですね。日本の国土の半分が老人で埋めつくされても、それはけっこう元気で楽しくて「美しい黄昏」的風景になるんじゃないかと思うんですが、おばあさんだけじゃダメで、おじいさんもカッコよくないと「美しい黄昏」的風景は作れません。
おじいさんたちの、いや、男のタリスマンってどんなだろう?…て考えるんですが、男性仕様に出来ているこの社会では、きっとそのタリスマンは方向性も運動性も、女性のそれとは違う働きをするんだろうな。