20034月の トンテンカン劇場

2003/4/23(水)『相変わらず極北をさまよう、私の音楽事情』

先回「エリザベート」はやる役者さんによってストーリーが変わると書きましたが、そのあと同じ一路真輝さんでもストーリーが変わったことがあるのを思い出した。
雪組公演を私は宝塚や東京で数回見てるんですが、静かで押さえた演技で耽美的な死(トート)役を演じていた一路さんが、一回バイオレントで荒々しい死(トート)を演じたのを見たことがある。

もともとウィーン版の死(トート)役は攻撃的で暴力的な「破壊神」として作られているので、そういうふうに演じた役者さんも多かったと聞いてますが、それをやると「おまえを愛している」といいながらエリザベートを傷つけて、周りの人を殺して、彼女を不幸のどん底に突き落として、「な〜にが愛してるだ。ストーカーか〜、おまえは?」(笑)。

一路さんはこの世に不幸と破滅を与えながら、それによって愛するエリザベートが不幸になるたびに自分も傷ついて血を流す死(トート)を演じていました。この人はマゾな役をやらせると輝く(笑)。

例えば離れたところから腕を振って部屋の灯りを消すシーンで。
腕をブンと力強く振って灯りを消して「破壊神」としての力を見せるか、腕をゆっくり上げてそれをほとんど動かさずにスッと灯りを消して、「この世界は私の支配下にある」とその異形の力を見せるか。
どっちを演じるかで観客の受ける印象はガラッと変わる。
あるいは舞台に立つエリザベートをワキで見つめるとき、そのまなざしに思いのままにならない女への怒りを込めるか、口に出して言えない思いを込めて悲しげに見つめるか。
一路さんも演じながら迷ってたと思うんですが、そういう微妙なディテールが観客に与えるメッセージはセリフ以上の効果を発揮するようで、ほんの些細な演技や演出がそのお芝居の構成全体を左右する。

私は死(トート)という役は人に破滅をもたらしながら、それが愛する人を不幸にするのを見て苦しむ引き裂かれた存在として演じるのが「演劇的に正しい」と思っているし、宝塚でカゲのある繊細な「男役」を演じていた一路さんの資質は、この「自己」と「愛」に引き裂かれて苦しむ死(トート)をやるのに最適だったと思います。

ま、 演出や役者がいくらがんばっても脚本が壊れていてはど〜しようもないので、一番大事なのはシナリオってことなんですが、どんなにいいシナリオでも細部に失敗するとダメになるってことで、モノを作るってことは本当にムツカシイ。

で、相変わらず極北の荒野をさまよっている私の最近の音楽状況ですが。

レコードレコードと騒いでいるわりには、最近買っているジャズはビル・エヴァンスもマイルス・デイビスもぜんぶCDで買っています。
その気になれば中古を捜すとかレコードを手に入れる方法がいろいろあることは分かってるんですが、私は仕事中に音楽を聴くことが多いので、レコードの片面が終わるたびにそれをいちいちひっくり返していると仕事にならない。

ではCDがなかった昔はどうやっていたかというと、レコードを買ってきてそれを家でテープに録る。レコードは片面25分前後なので、A面B面合わせて90分テープの片面にレコード一枚分が入った。ここでどのレコードとどのレコードを組みあわせてテープに録音するかが重要問題でした。
以前書いた辻村ジュサブローさんもきっとそうやって作ったテープを回しながら人形を作っていたんだと思う。

気に入ったレコードはさらにテープに録って「これいいよ〜」と友人たちに配布した。さらにはお気に入りの曲を集めて自作の「コンピレーション」テープを作り、それをダビングして友人にあげたり、友人からもらったりして、それで聴く音楽のジャンルが拡がっていったものですが、今はMDもCDを焼く機械も持っていないので、聴く音楽のジャンルが狭くなったと思う。

レコードにはこだわらないつもりだったが、正直いってビル・エヴァンスのレコードは欲しいな、と思わないでもなかった。

そんなある日、東京からのお客人と行ったBARにはスタンダードなジャズがレコードで流れていて、「Portrait in Jazz」がかかっていた(!)。
ああ、やっぱりCDと違うな。音質じゃなく、回転が違う。このお店のステレオセットとウチのステレオの音が違うのかもしれないけれど、やっぱり欲しい、と思う気持ちがとうとう押さえられなくなって、インターネットで検索をかけることにした。中古かオークションに出てないかと思ったんですが、なんと新品のレコードを売っているお店がインターネットにはあった…!
私の知る限りではアメリカのジャズ、英国のクラシック、中南米のサンバやサルサなどは今でもレコードを出していて、インターネットやマニア向けのレコード・ショップで売っている。
クラブのDJもレコードを使うので、最先端音楽を扱う店も多いようです。

ビル・エヴァンスのレコード権を持っているのはアメリカ西海岸のFantasyという会社で、そこはいまだにレコードをプレスし続けていて、それを輸入して1800円で売っている店に私はオーダーを出し、数日後に「Portrait in Jazz」と「Walts for Debby」が届いたときはもう、狂喜乱舞。わ〜お、やった〜!てなもんです。

ところがこのレコード、CDより音が悪かった(笑)。

CDだとエヴァンスのピアノの音は星をぱらぱらばらまくように一音一音区切って聞こえるのに、レコードではダンゴ状で、こんなのぜんぜんエヴァンスのピアノの音じゃないよ…(涙)。

たしかにLINNのCDプレイヤーが一番美しく再現するのはピアノだと思う。一つ一つの音が際立っていて、和音の響きも自然だ(合体してハンマーにはならない^^;)。そのかわり弦と声はイマイチ。弦が一番キレイだったのはNakamichiのテープ・デッキで、弦をこすって出す音が部屋中のすみずみに伸びて広がっていくあの心地よい楽しさを、私はLINNで味わったことはない。(ウチのは一番安いGENKIですからね。ハイ・グレードは知りませんよっ)

LINNをむやみやたら擁護するつもりはないが、うちのレコード・プレイヤー(20年前のVICTORに、カートリッジはOrtofon )はもうちょっとましにピアノの音を再現するぞ。こんなグズグズの音の「My Foolish Heart」を聴いて「ここまで肉体に食い込まれると、もう何も言えない」なんて村上さんが言ったとはとても思えない。
ひょっとすると今プレスしているレコードは、原盤がすり切れちゃって、昔より音質が落ちているんだろうか?

レコードよりCDの方が音がいいってことでしょ、と言われればそれまでですが、「Concierto アランフェス協奏曲」(ジム・ホール)はCDよりレコードの方が段違いにいい。

これは発売当時に買って(1975年、うわ)、ずっとレコードで聴いていたんですが、ボーナス・トラック(同じセッションで発売当時にカットされた曲や別テイクを入れて再発売して、もう持っている人にまた新しく買わせようとするこざかしい企み)が+五曲だったので、くらくら目がくらんで思わず買ってしまったんですが、ものすごい音質の劣化に、違う意味でくらくらしてしまった。

「さわり」というんでしょうか、楽器の震える音がCDではカットされていて、自然な響きが無くなった結果、ギターやピアノやベースが競いあって作り出すスリリングな波動が消えて、すべての楽器が合体してのっぺり、スベスベのキレイな音になってしまっている。
しかも私の持っているレコードはCTIの輸入盤ではなく、キング・レコード発売の国内プレス盤なんですけどね。

と申しますのは、 この世界にはオリジナル原盤至上主義というのがありまして、海外のレコード会社がほかの国のレコード会社にプレス権を与えるのはかなり慎重らしくて、そりゃそうですよね。ヘタなコピーをされてそのアーチストの人気が落ちたらモトもコも消えてしまいますからね。技術立国の日本なら原盤よりいい音のレコードを作りそうなものですが、周波数を聞き分ける耳(機械)が一番いい音楽を作るわけではないってことで、ふふふ。ふつう日本盤より輸入盤の方がいい音とされています。CDもね。

でもボーナス・トラックに入っていた曲が、「どうしてこんないい曲をカットしたの〜?」(収録時間をオーバーしたからです)って驚くくらい、どれもこれもとてもよくて、スタジオ中がノリノリで緊張感と創造性にあふれたいいセッションだったみたいで、これをカットするのはツラかったろうな〜と思うくらいの名曲揃いで、CDをかけるとそのボーナス・トラックばかり聴いてます。

CDを発売することになったとき、録音できる周波数の広さと時間の長さのどっちを選ぶかと迫られたSONYだかPhillipsのスタッフは、録音時間の長さを選んだそうで(確かカラヤンの「第九」の録音時間74分がマキシムといわれてますね?)、そのおかげで発売時にカットされたボーナス・トラックがCDに入るようになったんですが、そのかわり人間の耳に入らない高音域と低音域がカットされることになって、人の耳には入らないけど(犬の耳には入るらしい)自然界には存在するこの「音域」が入ってるか入ってないかが、CDとレコードを聴いて人間が感じる快、不快に関係するといわれています。
つまりレコードにはじつはCDより広い音域をカバーする情報が埋め込まれているんですが、ご家庭のレコード・プレイヤーがその情報を引き出す能力を備えているかどうかは別問題で、レコードがその能力を開発する前にCDが出ちゃった…というのがこれまでのオーディオ史の経緯だと聞いています。

とと、なんだかまたレコード至上主義者の演説を始めてしまった私ですが、最初にCDで聴いたビル・エヴァンスはCDがよくて、最初にレコードで聴いたジム・ホールはレコードがいいってことは、つまり最初に聴いたのが人間の耳にすり込みされちゃうってこと…?って思うんですが、ま、そういうことに過ぎないのかもしれません。

あ、そうだ。以前ビル・エヴァンスの「サムデイ・プリンス・ウィル・カム」をディズニー・アニメ「眠れる森の美女」の主題歌だっていいましたが、「白雪姫」でした。つまりこの曲が終わると、「ブルー!ピンク!ブルー!ピンク!」ではなく、「ハイホー、ハイホー!」が始まるんですね。ではあの時森の中でオーロラ姫が歌っていたのはなんという歌だったんでしょ?

以前「オーディオ貧乏」という、右も左も分からないステレオ・ファンが聴きたい音楽を奏でるキカイを捜して秋葉原をさまよったあげく、LINNのCDプレイヤーにめぐり逢うまでの経緯を書いたとき、たくさんのオーディオ・ファンの方からメールをいただいて、びっくりしました。
いろんな人が「中古オーディオ」とか「アーノンクール」とか「LINN」とか様々の検索をたどってウチに来て(検索エンジンってめくられるページ数が多いと上に載せるんでしょうか?)、そのすべてが、私もLINNが欲しいんですよ、こんどLINNを買うんですよ、LINNはサイコーですよ!って熱烈なLINNファンばかりで、LINNのファンはこんなに多いのか!と嬉しかったんですが、仲間を見つけるとメールを出さずにはいられないほどアタシたちって少数派?…と寂しくなったりもしたんですが(はははは)。でも熱意のこもったメールは読んでいてホント感動しました。本当にありがとうございましたm(_ _)m。

その中に「どうかこれからもたくさんのオーディオ記事を書いて下さい。期待しています。」という方がおられまして、いや、えっと、私はオーディオ評論家じゃなくて、漫画家なんですけどぉ〜。

そういう方がもしまだこのH.P.を読んでおられましたら、ロマンスあふれる少女漫画は読みにくいかもしれないけど、「Shang-hai 1945」はひょっとするとお好みにかなうかもしれないので、本屋さんで見つけたら手に取ってみていただければ幸いです。
貴方がお買い上げくださって私に印税が入れば、私は新しいLINNのアンプかB&Wのスピーカーを買って、新しいオーディオ記事を書いてみせましょうぞ(笑)。

2003/4/6(日)『ノー・テクニック、ノー・デッサン』

4月に出る「Shang-hai 1945」の巻末に「オリンピアード」(読み切り50p)が載るので、整理して送ろうと原稿を見返したら、あ、そうそう。描いてから初めて見返したんですが。それがあまりに「原稿料ドロボウ」だったので、ああ、この時ネームが遅れて、絵を描くときデッサン取ってる余裕もなかったんだなあ…。
とにかく荒れてるは、バックは入ってないは、アシスタントもベタを塗ってトーンを張るだけの時間しかなかったらしい。それとも私が背景の資料を捜す余裕もなかったのかな。

とにかく、これはあまりにヒドイ…と書き直しを始めたらそれが止まらなくなって、なにしろ全ページの全人物がみんな顔が分解していたり手や足が骨折していたり(こんなポーズとれないよ〜)しているので、ゲンコーを落とさないためにスピードを上げることしか考えられないくらい、しめ切りが後ろに迫ってて、デッサンを考える余裕が無かったみたいです。

世の中には考えなくてもなにがどこに来てどこになにを描けばいいか先天的に分かる漫画家もたしかにおられます。しかし私は人体の構造からいってここにこれが来るとあれはそこに行く、とか、人物がここにいると、後ろの部屋の角はその辺にいくだろうとか考えないとデッサンが取れない。きっと左脳で絵を描いているんだろうな。

友人に手伝ってくれと頼もうかと思ったんですが、直しに取りかかったのが原稿を送るタイムリミットの直前だったので、突然金沢に来て〜!と泣きつくのはあまりにも人の都合を考えない失礼なことだろうと、ま、最低限だけ直すことにしようっと自分でやることにしたのですが。いやはや、こんなに斜線を引いたりトーンを削ったりしたのは初めてでした。斜線やトーン張りやベタはこういうふうに塗るのか〜と学習しました(笑)。それどころか背景はこういうふうに描くのか…!と感動もしたりして。

「作家ができないことはアシスタントもできない」という鉄則が漫画家の仕事部屋にはありまして。自分で背景を描かなくなると、指示もできなくなって、アシスタントも指示されない絵は描けない、ということです。これは私だけかもしれませんが。
主線(おもせん:キャラクターの輪郭)だけではなく、背景もできるだけ描かなきゃなあと思ったんですが。でもうしろにしめ切りが迫ってきて思考力が無くなると、私は小学生並みのバックを描くんですが…(^^;)。

漫画家の生活って「しめ切り」とどうやってうまく共存共栄していくかなんですね。与えられた条件内で最善の仕事を求められる。「落とす」なんて問題外だし、時間があればもっといい絵が描けたんだけど…なんて言いワケは通らない。雑誌のしめ切りは定期的にやって来て、与えられた時間内で提出できた作品がその作家の実力。入学試験で課題を出されて、時間が足りないから書けなかった、なんて言いワケ通るわけないでしょ。

私は人よりトロくて、「火事場の馬鹿力」で漫画を描くので、なんとかスケジュール通りに仕事をしようと必死で机の前に座るんですが、そうするといつまでたってもアイデアが湧かない。うしろにしめ切りが迫って半狂乱になるとやっとアイデアが降ってくる…という因果な体質で、こういう作家は多いと思うんですが、中にはちゃんとスケジュール通りに仕事を進められる人も確かにおられるので、どちらが多いのか、誰か統計を取ってみると面白いかと…(^^;)。

でも漫画家はみんな、時間にとらわれず自分で納得できるまで漫画が描けたらいいなあと思ってるんじゃないかしら。

もともと私は題材を「現代」ではない時代に取った漫画を描くことが多いんですが、「歴史もの」は背景が入っていないよりは入っていた方が読者に親切です。それに加えて、私はもともとお話しを描くというよりは、キャラクターとかそのキャラクターが置かれた状況を描くことが多いんですが、それがどういう人物でどういう状況に置かれているのかということは背景や表情が入っていないと分からないので、絵が荒れると、いったい何のためにこの話を描いたのか分からない作品ができる。という、オソロシイことになります。

それについては、ミュージカル「エヴィータ」を思い出します。
アンドリュー・ロイド・ウェッバー(「ジーザスクライスト・スーパースター」や「オペラ座の怪人」の作曲者)とティム・ライス(「ジーザスクライスト・スーパースター」の作詞者。今はディズニーのミュージカルの作詞をしている)のこの傑作ミュージカルを、私はロンドンで二回、東京で一回見ましたが、タイトル・ロールのエヴィータ役も大事ですが、相手役のチェ・ゲバラをどういう役者が演じるかで、このミュージカルはストーリーがガラッと変わる。

エヴィータはアルゼンチンの地方に生まれ、ブエノスアイレスに出てきて娼婦から女優、独裁者ペロンの愛人、ついには妻に成り上がり、その美しさと人気で「アルゼンチン人の母」としてペロンの独裁政権を支えて、33歳でガンで亡くなった女性で、今でもかの国では絶大な人気があるそうですが、こんなローカルで特殊な人(しかも悪役!)を主役にしてどうして人気ミュージカルになったんだろう?とお芝居を見る前は不思議でしょうがなかったんですが、見たら一瞬で納得しました。

ティム・ライスの脚本の面白いところは、キューバ革命でカストロの盟友として戦ったチェ・ゲバラをお芝居の「進行役」として設定し(ゲバラはアルゼンチン人でたしかお医者さん…?エヴィータと関わりを持つのはティム・ライスのフィクションだと思いますが)、エヴィータの人生のそこここに出てきて、その場面でいろんな役に扮してチャチャを入れたり非難したりします。
こういう言い方は正確じゃないと思うんですが、エヴィータが現実なら、チェは理想。この二つの対立の上にドラマは進行します。

貧しい虐げられた民衆のために戦ったチェと、人を騙して陥れて虚飾の人生を送ったエヴィータは最初はお互いをののしり合ってますが、必死で生きるエヴィータを見ているうち、チェはエヴィータの生き方を理解するようになる。 二人のあいだに橋がかかり、緊張した対立関係の中でエヴィータとチェのあいだに恋(といっていいんだと思う)が生まれる。
そう生きるしかなかった女と、そんな女を愛してしまった男。それが人生だよね、と最後にエヴィータが亡くなってレクイエムが流れるとき、観客はエヴィータを許し、チェを許し、生きることのやるせなさに涙しながら劇場をあとにする…。

エヴィータはその美しさで地位を手に入れた女で、チェ・ゲバラも未だにそのTシャツやポスターが人気という男前のラテン男ですが、一回このチェ役をただの太ったオジサンがやってて(笑)、そうするとチェとエヴィータのあいだに恋愛が成立しなくて、二人がただ対立しているだけで、愛も許しもやるせなさも感じられなくて、「面白かったね」とか「いい音楽だったね」で終わってしまって、一緒に見に行った友人に「これはホントはこーゆー話なんだからね〜!」と必死で説明した覚えがあります。

たぶん「サウンド・オブ・ミュージック」はマリアとトラップ大佐を誰がやってもそれなりの舞台になるんでしょうが、「エヴィータ」のティム・ライスの脚本は、ちょっとバランスが崩れただけで印象がガラッと変わってしまう、すっごく微妙でキケンな橋を渡っているんだと思う。

そういえば宝塚の「エリザベート」も、ぜんぶ見ている人は死(トート)役をやる人によって印象が違うという。うまい、へた、好き、嫌いはあるけれど、ストーリー的には一路真輝さんがやっぱり合っていたとみんないう。(「エヴィータ」のチェ役を「エリザベート」ではトートとルケーニの二人が担当しています^^;)

映画「エヴィータ」をごらんになった方はあまり面白くなかったと思うんですが(笑)、あれは舞台を映画にしたらMTVになってしまったんです。チェ・ゲバラが突然出てくるのでびっくりするでしょ。そもそもあれがチェである必然性がない。チェというのは「演劇でのみ許される」すっごく「ウソ」のキャラクターなんです。

まあ、そんなふうにちょっとバランスが狂うと失敗するかもしれない、危ない橋を渡る作品をもし描きたいと思ったら、しめ切りに追われる雑誌主体の漫画家生活をしていては無理かもしれないなあと思うんですが、しめ切りがないと仕事をしないというのも漫画家のサガなので(今それを実践している ^^;)、仕事ってホント難しいよね…って悩んでるヒマがあったら、一コマでも描けよ。でございます(笑)。

「オリンピアード」の直しをしているあいだ、ずっとマイルス・デイビスやジム・ホールやビリー・ホリディを流していました。
ジャズが流れる少女漫画家の仕事部屋というのはあまり無いだろうな、いいのかな〜と思いながら、抒情的でありながらリズミカルでハードボイルドなジャズはけっこう仕事がはかどる音楽でした。

あ。私は叙情性がないジャズは体質的に受けつけないようです。ハードで乾いたリズムの中にリリシズムを漂わせるミュージシャンだけを好きになるようで、キース・ジャレットとかセロニアス・モンクとかまったくダメ。ジャズってエッジが鋭角的なところがあって、女性向きの音楽じゃないなあと時々思うんですが、さいはての荒野に抒情性が流れるのを追求するのも一興かと(^^;)。

直しをしながら「ああ、私はなんて絵がヘタなんだろう、なんて技術がないんだろう」、ほんと「ノー・テクニック、ノー・デッサン NO TECHNIQUE、NO DESSIN」だわ〜と自分で自分をののしっていたら、これはタワー・レコードのキャッチ・フレーズ「ノー・ミュージック、ノー・ライフ NO MUSIC,NO LIFE」のもじりであることに気がついた。
「ノー・ミュージック、ノー・ライフ NO MUSIC,NO LIFE」は音楽がなければ生きていけない、生きていてもしかたない、というほどの建設的な意味ですが、「ノー・テクニック、ノー・デッサン」は地獄へひたすら落ちていく螺旋状のラビリンス。悲しかった…。