酒場的CDライフ

 

ハードについて書きましたが、まともなCDプレイヤーが手に入ったのが嬉しくて(音質はともかく)、久しぶりにCDをたくさん買い込んでしまいました。
だからソフトについて少し書きます。

お気に入りピカイチはブライアン・フェリー「アズ・タイム・ゴーズ・バイ As time goes by」!

ご存じの通り、ブライアン・フェリーは英国のロック・グループ ロキシー・ミュージックのリーダーでボーカリストで、黒髪を七三に額に流した黒のタキシードがよく似合うダンディを演じていますが、中身は変態のオジサンです。

「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」は映画「カサブランカ」の中で歌われた有名な曲で、「月の明かりと恋の歌は古びることがない、時が流れても」とピアノで切々と歌いあげるラブソング。
この映画も曲も好きな私は、かつて同名のタイトルで漫画を描いたことがあります(^^;)。
舞台は第二次世界大戦下のカサブランカではなく、現代の東南アジアでしたが…。

五枚目のソロアルバムにあたるこのCDは、古いハリウッド映画の主題歌や「恋人よ我に帰れ」など、30年代のヒット曲を、ミュートをかけたトランペット、ギター、ベース、ドラム、ピアノなどのアンプラグドなバンド編成で、相変わらずけだるげに、切なげに歌っています。

これまでも彼はソロアルバムでいろんなヒット曲のカバーヴァージョンを歌ってきましたが、私は一枚目の「愚かなり、我が恋 These Foolish things」('73)に入っていた「涙のバースディパーティ」という曲が忘れられない。スタンダードなアメリカン・ロックンロールです。

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今日は私のお誕生日パーティー、なのに私のジョニーったらジュディとどこかへ消えてしまったの。
私のパーティーよ、泣かせてちょうだい、こんなことがあなたに起こったらきっと泣くわよ、ウフ〜ン。

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と昔のロカビリーらしいたわいない歌詞で16、7歳の娘がすすり泣くのは、いいでしょう。
しかし黒髪を額に流したタキシードの似合うオジサンがウフ〜ンとすすり泣くのを聞いた時、私の背中がいかにソソケ立ったか想像していただきたい。
その前に黒髪を額に流したタキシードの似合うオジサンがなんでこんな歌うたうんだいという問題があるけれど。スタンダードでグラム・ロックをやったらどうなる?というコンセプトでもあったんだろうか…。
彼の変態性になんとマッチした名曲だと感動して、繰り返し聴いては背中をソソケ立たせたものです。

あいかわらず、タメ息で拍子をとるようにかすれた声で歌うところは変わらないが、あの頃の変態性に比べると、このアルバムはダンディでストレートで、ケレン味なく歌っています。かれも四人の息子の父親なのね。
歌も上手くなったし。
というより、むかしはワザと歌を壊してうたっていたんだろう。パンクの先駆。
よけいなものをそぎ落として歌うことに専念したら、音程も外さないし、じつは歌が上手かった(笑)。

デビューしたときからずっと彼はたぶん歌でドラマをうたいたいと願い続けてきたと思うんですが、このアルバムを聴く人はみんなそれぞれ自分の想像の中でドラマを展開するだろう。
選曲もいいし、30年代ぽい雰囲気を再現してるところもお見事です。
シンコペーション(前に拍が入って思わず前のめりになるジャズのリズム)なんか使って当時のジャズ風の編曲をしてますが、じつはモダンなんじゃないかな。このアレンジはけっこうクセ者だと思う。
あのちりめんビブラートもいまやプラチナの輝きを放ち、ビロードの蛇、声のストラディバリと呼んであげたい。

アルバムを聴き終わると。
色っぽくて切ない歌声が店に響き、拍手の音も消えて沈黙が残る。
客が帰ったあとのひと気ないクラブの情景が、あなたの目に浮かぶでしょう。
もの悲しくもさっきまでのプレイを懐かしむ甘い気持ちが、きっとあなたの心に残るでしょう。

もともと彼の本質はキャバレー・シンガーではないかと私は思っている。
一時期活動を休止してロサンジェルスにいたころは、紫煙たなびく地元のクラブで歌っていたときくし、ロキシー・ミュージックのコンサートより、その小さなクラブで歌ってる彼の方を私は見たかった。

キャバレーというと、30年代のベルリンですが(笑)、このアルバムではハリウッド映画だけでなく、ドイツ映画「嘆きの天使」の「また恋におちたのよ Falling in Love Again」も歌っている。
マレーネ・ディートリヒ扮する宿命の女「ローラローラ」が足を組んで歌うあの曲です。

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また恋におちてしまった、そんなつもりはなかったのに。
恋はいつだってゲーム、やりたいようにやるだけ、自分ではどうすることもできない。
女たちは炎に集まる蛾のように群がってくる、その羽根が燃えおちてもぼくのせいじゃないさ。

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こんな歌を彼以外の男が舞台で歌ったら、お客さんはみんなビール瓶を投げつけて帰ってしまいます(笑)。
ううむ、なるほどと客を納得させてしまうところが、名歌手なのか、やっぱり変態なのか。この人はオンナ歌を歌わせると色気を増幅するという、日本の演歌歌手みたいなとこがある。いちおうboysをgirlsと性別を置き換えて歌ってますが、おほほほ(笑)。

そして最後を締めるのは「セプテンバー・ソング」。アメリカ映画の主題歌ですが、この曲を作ったクルト・ワイルは30年代ベルリンで活躍した作曲家で、ブレヒトのオペラ「三文オペラ」の作曲者。ヒトラーが政権をとったあと、アメリカへ亡命してブロードウェイ・ミュージカルなどを書いた。

だからこのアルバムにはマンハッタンの酒場にベルリンのキャバレーの雰囲気が加わって、ブライアン・フェリーはヨーロッパの退廃の美学のヨロイに上から下まで身を固めた男なので(笑)、なんだか70年タイムスリップしてベルリンの酒場に迷い込んだようなサッカクに陥って、私は幸せになっちゃうのです。

もちろん30年代の曲をそのまま再現してるわけじゃありません。
そんな退屈なことは、彼の美意識が許さない。
30年代を下にしきながら、最先端の音楽に仕上げている。
だからジャズにも30年代にも興味がない人にも、シビレちゃうカッコイイアルバムです。
そして30年代や「カサブランカ」やディートリヒが好きなあなたには、はい、必聴のアルバムです!!!

 

もう一枚のオススメは「ヨーヨーマ・プレイズ・ピアソラ YO-YO MA・SOUL OF THE TANGO」

でもこれは、今聴くのがツライ。
チェロの弦ののびもピアノの響きもギターのツメの弾みもバンドネオンの泣き声も、どうしてここまで出ないの〜!?ってくらい、新しいCDプレイヤーでは悲惨な音になる。でも回転がポンポン飛ぶ古いプレーヤーで聴くのはもっとツライ。バイオリンとか弦楽器がまったく再生できないのね、キミは。クラシックが好きじゃないんだね。ペット・ショップ・ボーイズとかはけっこう上手いのにね。

アストール・ピアソラはアルゼンチンのタンゴの作曲家です。
やはりクラシックのバイオリン奏者ギドン・クレーメルのピアソラ・アルバムは聴いていたけど(彼が演奏したそのアルバムが売れて、ピアソラ・ブームが起こった)、これはバンドのメンバーがクレーメルのお友達のクラシック奏者だったので、クラシックみたいにお上品なアルゼンチン・タンゴだった。

もともとピアソラはジュリアード音楽院に留学して、タンゴをコンテンポラリー音楽として作曲した人で、彼の曲は「踊るタンゴ」ではなく「聴くタンゴ」といわれている。だから「タンゴ・クラッシャー」とアルゼンチンではいじめられたそうです。

ヨーヨーマも有名なクラシックのチェロ奏者ですが、このアルバムはピアソラと一緒にタンゴバンドを組んでたアルゼンチンのアーチストと競演しているので、クレーメルよりスリリングでドスがきいている。本場のタンゴに近いんじゃないかと思う。私はこちらのほうが好き。「聴くタンゴ」にだってパッションとエモーションは必要だ。

 

私は昔から「あなたの趣味には脈絡がない」といわれ続けてきたが(守備範囲が広いというホメ言葉だよね)、年をとったせいか最近嗜好がよりシンプルではっきりしてきたように思う。

音楽では「酒場音楽」(笑)。

ブライアン・フェリーはキャバレー歌手だし、ピアソラは酒場で踊るダンス音楽タンゴの作曲者。
それもちょっとレトロな30年代ふうの酒場が好みらしい。
その源をたどれば、日活アクション映画に必ず出てくる、こんなものホントにあるんかいというような怪しげな銀座のキャバレー、ってこれもう聞きあきてますね。すいません。
懐メロも好きだったし、「モロッコ」もディートリヒも好きだったし、映画「キャバレー」にけつまずいたのもそのせいかもしれないし(「地獄に堕ちた勇者ども」にけつまずかなかったのは踊るシーンがなかったから?)、「上海バンスキング」にもハデにけつまずいた。

「上海バンスキング」は戦前の上海を舞台にしたお芝居で、演じたのは自由劇場。初演はもう20年くらい前になりますが、名作なのでそのあとも繰り返し再演された。ミュージカルじゃないんだけど、ジャズマンと歌姫が主役なので歌うシーンがたくさん出てくる。主演の吉田日出子さんが戦前の流行歌を歌ったのが話題になって、それをきっかけにそれまで出てなかった戦前のポップスやジャズの古いレコードが復刻されたのは本当にありがたかった。

それからヨーロッパへ旅行するたびに、パリやロンドンやベルリンのレコード店で古い復刻版を買うようになって、ちょっとした30年代コレクション、とまではいかないが、ヘンなレコードのたくさんの所持者、にはなった。

そういうのを聴いているうち、30年代のとくにドイツの流行歌は(つまり酒場でかかっている曲)これだなあという傾向がだんだん分かるようになってきました。
今は、知らない曲がかかっても、おや、おにいさん、あなた30年代ドイツにいましたね、ふっふっと一人怪しく笑えるようになった。
それはだいたい短調(マイナー)で、ブンチャブンチャブンチャカブンチャという人をせかせるようなリズムで、地をはうメロディーが高音に上がるときかならず半音を使うので、エキゾチシズムと同時に、世界が壊れていくという異化作用を人に与える…ような気がする。
ここにスラブ風味をパラパラふりかけると、2、30年代ベルリン音楽ができあがる。

スラブ風味というのはロシア民謡「黒い瞳」とか(「ボルガの舟歌」とか「ステンカ・ラージン」だと重すぎる)サラサーテの「チゴイネルワイゼン」みたいに泣きながら旋回するというか…ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」を思い出していただければ、ああ、ああゆうカンジかとなんとなくわかっていただけるんじゃないかと思うんですが…。

2、30年代ベルリンは世界中からいろんな国の人、とくにハンガリーやチェコ、ルーマニアなどの東欧の人が集まって、その中には古代ローマとの戦いで祖国を無くしたのち、ドイツや東欧に住みついたユダヤ人や、15世紀以降にスペインを追い出されてはるばる北ヨーロッパまで流れてきたユダヤ人が大勢いた。
彼らが自分たちの伝統音楽に中近東やスペインや東欧で吸収したエッセンスを、アメリカから渡来したジャズやヨーロッパ伝統のワルツにのせて演奏した結果が、あの時代の哀愁をおびてもの悲しくも人を異世界に誘う音楽を作ったのではないかと推測しているのですが。

そういえばジャズもヨーロッパからやってきた音楽に、アフリカ系アメリカ人のリズムが加わって産まれた混淆で、そのジャズを新しい音楽として受け入れたヨーロッパでも、それを消化する過程でいろんな文化の混淆が起こっていたわけで、20世紀初めは音楽が違う音楽とぶつかって、これまでにない変化をした特別な時代かもしれません。

先日見たアニメ映画「メトロポリス」は音楽にディキシーランドジャズを使っていたが、30年代ドイツ風を使っても面白いだろうなあと思って見ていた。
ディキシーランド・ジャズはノスタルジックだけど、30年代音楽のもつ哀愁や奇妙な作用があったほうが、この映画には合うんじゃないかなと思ったのだ。
その違和感のせいか、最初はちょっと不快に感じる人が多いかもしれない、とっつきの悪い音楽ですが、一度はまると大好きになる「くさやのひもの」みたいなところがあるんです、2、30年代ベルリンのカフェやキャバレーで流れていた音楽は…。 

 

最近は、いわゆるクラシック音楽はほとんど聴きませんねぇ。
もともと19世紀の、これぞクラシックです〜!とかしこまって聴かなきゃならない雰囲気のクラシックはニガテで、とくに「交響曲」はほとんど右から左へ耳を素通り。ちょっとすそを引かれて、我にもなく聞き惚れてしまったトスカニーニはクラシック界のケレン王だし(綿密な計算をしたあげく、とてつもない感情全開で棒を振るんです。この人がベートーベンを振ると、ベートーベンさんてイタリア人だったのね…)。
19世紀から20世紀へかけての西洋音楽の王道を避けて、その周辺ばかりうろついていた下賤な人間です。

その前のバロック音楽は好きでしたが、それも19世紀ふうのフルオーケストラで演奏するのではなく、ニコラウス・アーノンクールやコープマン、クイケンなどの古楽器を復元して演奏する人を聴いてました。
古楽器というのはピアノならチェンバロ、ギターならリュートとか、オーボエとか吹奏楽器も形が違って、もっと形が大きくて低い音を出すようです。
19世紀頃に音楽がそれまでの宮廷の部屋ではなく、大きなコンサートホールで演奏されるようになって、楽器もそれまでのお部屋サイズではなく、大きな劇場いっぱいに響く大きな音を出すことが要求されて、改造されて、今のクラシック楽器のかたちができました。
最近はバッハやモーツァルトが作曲していた当時の楽器を復元して、オリジナルの楽譜通りに演奏する人がふえてきて、そういう音の方が荒けずりだけどこちらにドーンと迫ってきて、私には合うみたいです。

でも、と音楽のトーシロウは思う。
そういう古楽器を使ってバッハやモーツァルトを演奏する楽団、たとえばアーノンクールとウィーン・コンツェントス・ムジクスなどのコンサートは東京文化会館でちゃんと響くのだろうか?私はコンサートを聴いたことがないのでわからないんですが。
レコード録音技術が発達したから、そういう古楽器グループの存在も許されるようになったのかな。マイクで録音できるようになり、それをご家庭の再生機器で鳴らせるようになり、それで二百年以上前の音楽が今また私たちの部屋に届くようになったのかな?

てことは、ご家庭で弾くには今のピアノ・フォルテより、いにしえの諸王の宮廷の広間で妙なる調べを奏でていたチェンバロの方がふさわしい?
でもベートーベンさんがチェンバロで「テンペスト」や「熱情」や「皇帝」を作曲できるとは思えないので、チェンバロとピアノはまったく別の楽器なのでしょうね。
ショパンやリストがチェンバロを弾くところも想像できないし、30年代のジャズ・クラブでルイ・アームストロングがトランペットを吹きながら「聖者が町にやってくる」をチェンバロと演奏したり、ブライアン・フェリーが「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」をチェンバロの伴奏で歌ったりしたら、シュール…いや、面白いかな?

 

病いがこうじて、さらにシンプル、ますますむかしに向かいつつあります。

中世に歌われていた恋の歌や政治を風刺する世俗歌曲を、当時使われていたオルガンやアコーディオンの原型みたいな小さくてプーカプーカいうものを鳴らしたり、洗濯板みたいなのをジャカジャカたたいたり、大きなたいこ(タンブーラ?タブラトゥーラ?)を手で打ったりしながら、カウンターテナーで歌うグループとかがあります。
ハープやリュートの伴奏で一人で歌をうたう人のアルバムもあります。
そういうのをよく聴いています。

苦しい恋を嘆いたり、道徳の堕落を怒ったり、悲しいときは神に祈りなさいとさとしたり、春がきたとみんなで喜んで踊ったりするための音楽です。
イタリアやスペインやフランスやドイツで、中世やルネサンスに歌われていた古謡です。
シェイクスピアの登場人物がお芝居の中で歌っているような曲です。

そういえば私、昔から吟遊詩人が好きだった。

中世やルネサンスには、吟遊詩人や遍歴学生やおちこぼれ修道僧たちが、ハープひとつをわきにかかえて、町から町へと旅をして、そういう歌を作って、歌って、リクエストを受けて、聴く人の涙をしぼり、その心を代弁したり、笑わせたり、一緒になって怒ったりして、みんなで飲んで騒いで踊っていました。
そういうのを再現して演奏しているアーチストたちがいるのです。

つまり、これも酒場(宴会)音楽です(笑)。

どうも私はCDをお手軽な「家庭酒場」として使っているようです。

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歌と踊りなくてなにが人生ぞ!
あなたのお部屋にいつでも、ケンカも二日酔いもない「ヴァーチャル酒場」を
世界中から配達します!!
たったの2500円!!!

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というキャッチコピーが浮かんできます。ケータリング「酒場」サービスですね。
すいません、とことん下賤な人間です。

でも音楽を聴いて踊ったり歌ったりして楽しく過ごす場所を、2500円でご家庭に運んでくれるCDは本当に便利でありがたいものだと感謝してます。
ホントの酒場もありがたいけどね(^^;)。

 

そんな酒場的CDライフを送る人間としては、最近どうも目が離せないのはアイルランド音楽です。

エンヤやザ・コアーズはいいですね。
とくにザ・コアーズのおねえさんの粘っこいボーカルは、タイコやフィドルなど使用される楽器の響きと一体化するかと思うと、違う情感を奏でたりして、伝統的なのか現代的なのかわからない不思議な存在感があって、女性ボーカルが苦手な私でも(ソプラノ好きな女、テノール好きな男は稀少品!)思わず引き込まれてしまいます。

それにしても、アイルランドのロックグループはどうしてあんなにフィドル(むかしのヴァイオリン)や洗濯板やタイコやリコーダーを使うんだろう。みんな中世ルネッサンス以来の古楽器だよ。
タップダンスの原型といわれるアイルランドの民族舞踊のリバーダンスも、ケルトの酒場歌。いや、えっと、宴会用催事です。

しかも中世古謡の資料を探してそれを研究してあーでもないこーでもないと復元して演奏してる中世歌謡・古楽アンサンブルなどと違って、彼らときたらきのうまでおじいちゃんが使ってた楽器使ってロックやってます〜ってカンジで、じつに自然で日常的じゃないですか。

ひょっとしてアイルランドの酒場では、今でも夜な夜な吟遊詩人が現れて、歌をうたって、酒代をかせぐといずこともなく去っていくのであろうか…?だとしたら、行ってみたいぞアイルランド!

 

などとらちもないことを書きながら、さっきからずっとかけているのは「マンハッタン・トランスファー」のLPです。
「マンハッタン・トランスファー」というのはその名のとおりアメリカの男性2人女性2人のボーカル・グループで、30年代のスイング・ジャズから現代の曲まで、その高い歌唱力と時代を見据えた批評力とおしゃれな音楽センスで歌って、ジャズ、ポピュラー、ロックのジャンルを越えて人気があった(今でもある!)グループです。
つまり産業革命後の激動の近代工業化社会における大衆酒場的吟遊詩人ですが(笑)、活躍してたのは20年ほど前なので私はほとんどレコードで持っています。(今CDで出ています)

「マンハッタン・トランスファー」はやっぱりいいです。
そして、レコードもやっぱりいいです。
マイルドで暖かい音で、どんなに大ボリュームでガンガン鳴らしても不自然さがありません。
CDだとどこか不快な金属音が入って、音がベタになって、しかもボーカルや楽器がタン!と切れるときに、キィンていう残響音が残って、ああ、この作り物め…と思ってしまうんです。
でも、レコードは音楽を作り物にするのに技術とパワーが足りなかったって言い方もできると思うんですが。

しかし私はレコードを捨てるわけにはいきません。レコードが好きなんです。
といいながら、さっきから何回ターンテーブルまで往復してお皿をひっくり返したことだろう。
やっぱりめんどうくさいね、レコードは。アタマ出しも、リピートもできないし…(涙)。 

そのうち考古学的レコード時代における私が好きだった近代工業化社会における大衆酒場的吟遊詩人の話とか、またしたいと思います。



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