20018月の トンテンカン劇場


2001/8/30(木)『長くて暑い夏の終わり。かな、これで?』

6月以来、東京へ行きたいと思い続けてきたが、6月から日本列島は暑くなって30度を超え、7月になっても金沢でもほとんど雨が降らず、日本中が記録的猛暑に突入した。
朝起きると、ああ、今日も34度かと思うのが当たり前で、日中はもちろん寝るときも24時間クーラーを付けっぱなし。
東京は8月に入ってから天気が悪くなって冷夏だったようだが、毎日36度とか38度を記録していた九州や四国や近畿や中部地方の方々は、まだ生きておられますでしょうか。
毎日熱気の中をはいずり回る日々ではなかったかと推察いたします…。
私も気がつくと腰をやられて身動きできなくなっていました。

腰がイタくて暑い中、小泉首相がよけいなことを言ったせいで、56年前の8月15日についてもの思いの島に亡命し、そこで戦争の本を読んだり、久しぶりに映画「東京裁判」や「ショアー」を見直していました。
小林正樹監督の「東京裁判」はアメリカが日本を裁いた東京裁判がどういうものだったか、アメリカの記録フィルムを使って克明に追い、その告発内容にそって日本の戦争遂行過程を描くことで、日本の戦争犯罪を明らかにしつつ、戦勝国が敗戦国を裁く裁判の欺瞞性を告発するという両義性を持った、太平洋戦争を客観的に描いたドキュメンタリー映画です。
「ショアー」(クロード・ランズマン監督)はナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を、記録フィルムを使って演出することは一切しないで 、生き残った双方の人々が自分がした経験をただ淡々と語る姿を、彼らが今生きている平和な場所を背景に撮り続けた名作ドキュメンタリーです。

事実は事実によってのみ語らせよ。
ナレーションが「こうだ」って語り、当事者がスタジオで回顧の涙を流し、アナウンサーがもらい泣きする番組って、事実の姿が薄くなる。
あれはドキュメンタリーじゃなくて、「知ってる○○○?」みたいなスタジオ・ショーなんだろうけど。

ドキュメンタリーの美学と表現方法は事実を伝えるためにある。
その事実を自分で生きて、あれは国のための戦いだったと信じていた人もいる。その人が流した涙とたどってきた軌跡を側で見ていて、「それは間違っている」とその人を断罪できない、私もいる。

人は過去に起こった事象から逃れられない存在である以上(私のささやかな人生だってこれまでの経緯の積み重ねの結果^^;)これは正しい、あれは間違ってると明らかに区分けするのは、なにかに頼って(たぶん権威?)心にモルヒネを打つことで、現在を考えるために過去を振り返って、考え続け、迷い続け、揺れ続けることが、ヒューマニズム(人間の権利)かもしれない。
と夏中考え続けた到達点は、あちらにもこちらにも足を置かずに、ひとりの人間としてこれからも考え続けよう、という決意でしかなかったんですが、「東京裁判」や「ショアー」が教えてくれたのも、これだ!と主張することじゃなくて、心を揺らし続けることでした。

でも国家政策は揺れ動き続けては困るんですけどね〜。
そのへん、少しでも生産的方向を目指すための戦略的パーフォーマンスと割り切って行動してほしいな。政治家は表現者と違って、ヒューマニストとして赤点覚悟の劣等生なんだから。その行動の真意を理解して評価するために民主主義はあるんだから。

暑くて長い夏でした。 夏バテというより、クーラーとパソコンがバッティングすると火花を放って、どうもそれが体にすっごくこたえる体質らしくて、パソコンにさわれなくなる。そういえば去年もそうだった。私だけじゃないと思うんだけど…。これからは心を入れ替えて、毎年8月は夏休みってことでどこかに遊びにいこうかと思います。

クーラーをつける時間を少しでも減らすためにはどうしたらいいんだろう?そうだ、風鈴だ!と買ってきて(ガラスの江戸風鈴を買うつもりが、高かったので、フラッと入ったアジア民芸品店で800円のインドネシア製)ずっとベランダに下げていました。
木で編んだ籠に金属製の細い管が六本つり下がってて、風が吹くとガムラン楽器のような音色を奏でる。これ、ホントは風鈴じゃなくて、ドアのところに下げて来客を知らせるベルじゃないかな。
どっちにしても、夏中その音をほとんど聞かなかった(笑)。

最近はそのチリンリリ〜ンという音を毎日聞いています。
窓を開けている時間も増えたし、風も強くなってきたみたい。

このまま寄り道することなく、秋がストレートに来てくれますように。