200011月の トンテンカン劇場


2000/11/11(土)『落葉に柳生一族の興亡を思い遣る秋、字余り』

あああ、びっくりした…。

久しぶりに買い物に出たついでにウロウロと町中を散歩してたんです。
雨が降ったあとだったので赤や黄色の枯葉が道路を埋めてて、もう枝が透けて見える。そろそろ紅葉も終わりです。デパートのデコレーションは赤と緑のクリスマスのものになり、このままお正月まで突入しそう。なんて早いんだろう。一年が終わるのは。

土曜日の近江町市場は甘エビやカニを買う観光客で身動きもできないくらい混んでいました。買う予定はなかったのでチラチラ見てただけですが、今年はなんだか安いみたい。豊漁なんだろうか。それとも高いと売れないから値段を下げてるんだろうか。不況で贈答品の利用が減っていると聞きます。

その近くに尾山神社というのがありまして、前田氏ゆかりとかよく知らないんですが、明治初期にできたステンドグラスの門とかあって、一応市内観光コースに入っています。神社の向かって右側に小さいけどおもむきのあるお庭があり(左側には結婚式場と駐車場がある(^^;)、春はその藤棚の下でお池の菖蒲をながめたり、冬はぼんやりひなたぼっこをしたりして過ごすのが好きです。

お庭の紅葉はいかが?と久しぶりにステンドグラスの門をくぐって、おう、今日は七五三だったかと賑わう境内の右を見やると、そこにデーンと巨大な石像が。 な、なんだ、これは?と近づくと、お松の像?視線を左に流したところに背中に「ほろ」をなびかせた前田利家の馬に乗った立像が…。

これかぁ。ちょっと前に地方ニュースでやっていた、さ来年NHK大河ドラマで「利家とお松」をやるのを記念して建てたという銅像は。

けして広いお庭ではないんです。
そこに4,5メートルはありそうな石碑と像を二つ建てて、それにさえぎられて向こうの池と小山が見えなくなってしまいました。
像をかき分けて池のほとりに立ってかつての風景を眺めようとするんですが、なんだか邪しまな気が横から押しよせてきて、とてもぼんやりできる気分ではありません。
これ大河ドラマが終わったら取り除いてくれるんでしょうか(ムリか)。

この境内のすみっこに松の羽目板もかすれて今は物置場と化した(笑)能舞台がひっそりと立っているんですが、それを見るための客席が昔ここにあったのです。屋根に柱だけの風吹き通る屋形でしたが、天井近くの壁に能興行のたびに勧進(寄付)をした人たちや団体の名前を書いた額がずらっと並んでいて、風雪にかすんで消えかけた墨の名前を、これは明治、おおこれは江戸かと読んでいると、能舞台の上に加賀宝生の役者が立って、旦那さんたちがその前で賑やかに語りあってる光景が浮かんできて、しばしトリップして遊んだものです。
いつの間にかその屋形は消えて、ジャリの広場となりました。
そこに今はお松と利家の像が立ちました。

せめてお庭のサイズと像のサイズのバランスをもうちょっと考えるとか、思い切ってコンテンポラリー・アートの銅像を建てるとか(笑)、生産的な建て方ができなかったんだろうか…。

県レベルだか市レベルだか知りませんが、前田家の大河ドラマをやって欲しいという運動が数年前から始まってると聞いてはいました。その陳情がきいたせいか知りませんが、さ来年「利家とお松」をやることになりました。
利家は歴史上の人物としては大河の主役をはるには弱いんじゃないかと思ったけど、脚本が竹山洋さんで、タイトルが「利家とお松」と聞いた時、あ、お松を描きたいんだ、この人。と期待するようになりました。
竹山氏は朝ドラの「京ふたり」とか、大河の「秀吉」とか(民放の稲垣吾郎君主演の「彼」も面白かった) 男性だと思うんだけど、女を描くのがすごくうまい方です。
「秀吉」でやった「ねね」役は沢口靖子の代表作だと思います。
その「秀吉」の時にお松をやったのは音無美紀子さんだったかしら。

お松は利家の糟糠の妻で、内助の功をやって、利家が死んで二代目の利長の時に「私どもは謀反を起こす気などありません」と進んで人質として江戸の家康の元に行って、許されて帰ってきて数年後こちらで亡くなった人です。
三代目の利常も、徳川に睨まれないためにバカのフリしてた名君だったはず。前田はそれほど徳川に恐れられていたともいえるし、徳川は自分たちの治世を守るためにそれほど非道な手を使った…とも思うんです。

以前「信長」という作品を描いて織田信長を扱って以来、その信長の遺産を引き継いで300年の平和を築いた「徳川」もいつか描いてみたいなあと思う素材になったんですが、たぶんお松は戦国が終わってやっと来た平和をずっと維持したいと願いつつ、自分たち家族を押しつぶそうとする力とは断固として戦った女性だと思う。生と死の谷間で、淀君なんかとはスタンスの違う戦国の「No.2の女」の戦いを竹山氏がどう描くのか、期待しています。

一方「徳川」の立場に立って、この平和を維持するために血を流した「三河家臣団」などの家康の側近などにも私はずずずっとひかれております。
特に柳生一族に(笑)。
これは小説家 隆慶一郎氏のファンだったせいが大きいと思うんですけど。
隆慶一郎氏は小説家になる前は「池田一郎」という名前で、日活映画やTVの時代劇の脚本を書いていました。
それを知ってから調べると、え、あれも?んま、これも?というくらい私が好きな作品の脚本を書いておられる方でした。
60を過ぎて小説を書き始め、家康の替え玉や吉原とくぐつを結び合わせる作品や柳生を題材にした作品で独自の歴史観を展開している途中、ガンで亡くなりました。作家活動、たった5年。早すぎました…。

家康に取り入って出世を果たす柳生宗矩。その息子十兵衛は各国を旅するシークレット・エージェントマン。 その弟は家光の稚児で、なにが原因だか父に自死を申しつけられる。 十兵衛が謎の死をとげた後、家を継いだのは能役者だった弟。
どこか世阿弥を思わせる、実にいかがわしい一家です。
日本刀の持ち方は難しくて私にはとても描けないと思うんですが、でもいつか柳生一族を描いてみたいというのが夢なんだなあ。


2000/11/8(水)『8年の距離 』

10月の末、戦雲たなびくはるか中東のレバノンの地で、サッカー日本代表は「アジアのブラジル」と化しました。

どーゆーことかといいますと、4年に一度開かれるアジアのサッカーナンバーワンを決める大会「アジア杯」で、日本と同じ予選リーグに入った相手は最初から一位を諦めて二位狙いでくるのです。一点取ると「オレ信じられねーや、日本から一点取っちまったぜ〜」と選手とベンチがだんごに倒れて喜ぶのです。フッと気がつくと相手チームのフィールド・プレイヤー10人が全員ディフェンダーと化しているのです。 そして日本と戦ったチームは精力を使い果たして次の試合にボロマケするのです〜!!!

オリンピックの時は、他のチームがみんな芝生の上でケンカしてるのに、なんで日本は芝生の上で高等数学を解いてるんだろう、熱血トルシエ先生から宿題が出てるのかなとアタマを抱えましたが、今回アジア杯のフル代表は大人のチームでした。
追いつめられてギリギリの総力戦は一試合も無いまま優勝しました。
ま、これは相手チームが弱かったからですが。
アジアでW杯の決勝リーグに上がれるチームなんて無いもの。最近ではサウジアラビアのベスト16くらいかな。
オリンピックの方が年齢制限はあったものの怖いチームばっかりで、優勝したカメルーンのしたたかさと強さには、日本はまったく歯が立たなかったろうな…。
決勝のサウジアラビア戦は1-0でちょっと危なかったけど、一点取られたら取り返したんじゃないかって気もする。
あっ、アブナイって胃がキリキリ痛む試合がないと、勝った喜びもイマイチって…まったくサッカー・ファンなんてどうしようも無い人種だ。

アジア杯で日本が優勝するのはこれで二度目です。
一回目は8年前、1992年に広島で開かれた大会。
私が日本代表を追っかけるようになったきっかけです。
ちょっと昔話。

その半年前の1992年春からオランダ人のハンス・オフトが初の外国人日本代表監督に就任して、ヨーロッパへ遠征して練習試合をこなす。当時「サッカーマガジン」を定期購読していた私は(爆死)その記事を読んで、今までの日本代表とちょっと違うぞという予感は抱いていました。

それまでの日本代表というと、私が見たときは横山監督。
こんなのサッカーじゃないという試合をしてアジアの国に負けている日本代表を見て、替わりに『ヨミウリ』(後のベルディ)を出したら勝つのになあ…。
ラモスにブラジルから帰ってきたカズが加わった『ヨミウリ』は、当時実業団だった日本リーグの中では唯一「サッカー」をしているチームで、あの頃日本代表と戦っていたら『ヨミウリ』が勝ってたと思う。
横山氏はそのあと浦和レッズのGM(ゼネラル・マネジャー)を勤め、レッズをJ2に落とした責任を取ってとっくに辞めたと思っていたら、先日J1昇格が危なくなったレッズは、監督を解任して横山氏を臨時監督にしました。目がテン。三菱には倫理も論理も節操も無い…。

オフト・ジャパンはヨーロッパ遠征のあと中国で開かれたダイナスティ・カップで韓国を破って優勝。PK戦の勝利ではありましたが、韓国に日本が勝つなんて信じられなかった…あの頃はテレビ中継も無く、スポーツ新聞のすみっこに小さく載ったその記事を抱きしめて、日本サッカーは変わる、違う時代が来るとブツブツ言ってる私を、友人たちは気味悪がって避けました。

そして始まった広島アジア杯。NHKの前に釘付け。
ラモスがカズが福田が森保が高木が…ああ、日本にはこんなにいっぱいいいサッカー選手がいるんじゃない!最初ガラガラだった広島のスタジアムは一試合ごとに客席を埋める人の数が増え、広島だけじゃなく、今度は違うぞ、なにか変わるぞという予感を感じたサッカーファンがぞくぞく大阪から東京から集まってきて、 ちょうど植田朝日くん(日本代表サポーターとして有名な人)がヨーロッパから帰ってきて、その指示で客席のサッカーファンがいろんな応援を始めて、最後はみんなが肩に手を置いて通路を右左に交差して踊りました。まるでスタジアム全体が踊り出したみたいでした。
日本に「サポーター」が誕生した瞬間でした。

あれから8年…たったんですねえ。
いろいろありました。
翌93年にJリーグが誕生し、その秋に「ドーハの悲劇」。アメリカW杯行きを逃し、Jリーグバブルがはじけ、日本代表はダッチロール…。
たった8年でここまで来た。というべきか、ここまでしか来られなかったというべきか。

92年の広島アジア杯の時は辛勝ばっかりでした。今まで負け続けてきた相手に勝てるわけないって負け犬根性でいつも先取点を入れられて、ハーフタイムでオフトにヤキ入れられて、後半ひっくり返して逆転勝利…の連続。
本当はこんなに強いんだよって嬉しかったけど、この「オフト・マジック」が翌93年のW杯アメリカ大会アジア予選の最終ラウンドで「ドーハの悲劇」に繋がる。
土壇場でやっぱり自分たちは弱いんじゃないかって「魔物」に捕らえられた日本選手達に「オフト・マジック」はきかなかった。
選手達は「監督」を信じてたけど、「自分たち」を信じていなかったんです。

ところで、キャプテンの森岡くん。
アジア杯を受け取る時、カップばかり見て握手するときも授与者のアジアサッカー連盟の会長(たしかサウジアラビアの王族。死ぬほど仕立てのいい背広を着ていた。カシミア100%だと思う)の顔を見ないで受け取ったでしょ。 あれ、いかんよ。相手に失礼だし、こーゆー時は「オレは強いんだ。今度もまた勝ってやるぜ」って相手の目を見てにっこり笑って主張しないとダメだよ。 対人関係のそういうシャイさが、ボールを挟んで一対一の競りあいに日本人が負ける原因に繋がるんじゃないの。 トルシエ先生がサッカー以外に教えようとしてるのはそういうことじゃないのぉ。一、二年海外で修行してきなさい、キミ。

カップ授与式のあと選手達がトルシエ監督を胴上げして、これ去年の世界ユースの全員キスの代わりかな。シャイな日本人はこうやって気持ちを伝えるのさと笑って見てたんですが、ふっ、むさ苦しい20人の男たち全員に順番にキスされたら、あの時ナイジェリアのスタジアムであんたのキスを受けて死ぬほどイヤーな顔をした日本人選手の気持ちもちょっとは分かったろうさ、トルシエ先生。

 

2000/11/4(土)『ゲンコーが編集部に届くまで
 あるいは、ちょっとそこまで野沢菜買いに 』

秋もすっかり深まって、金沢の公園の木々も紅葉がはじまって、夏の猛暑のせいかグリーンから赤に移るグラデーションが今年はなんだかとてもきれいです。夜は暖房がないと寒くなって、ボーッとして秋の来たのにも気付かないでいた私は寒気にやられてちょっと風邪気味です。

「月光の帝国」第二回目のゲンコーは、手伝ってくれていたアシスタントさんが東京に帰る時に持っていって、羽田空港に迎えに来た編集さんに手渡してブジ印刷所に入りました。
11月6日発売です。よろしゅうお願いします。

東京にいた頃は編集さんが取りに来ていましたが(吉祥寺だったので中央線で一本)、今は金沢在住なのでゲンコーはふだん金沢のヤマトか日通航空で出します。 それより遅れると、小松空港の日通航空の事務所に持っていくと、いまや飛び立たんとしてるヒコーキにギリギリ載せていただけます。 それを「配達」ではなく「空港止め」というのにして、羽田空港の日通航空カウンターに編集さんに受け取りに来てもらう…というのが最悪のパターン。金沢から小松空港までの往復タクシー代は二万円近くかかるので、かなりイタイ。

新幹線が通っているところだと「新幹線便」というのが使えるそうです。使ったこと無いんでよく分からないけど、新幹線がガタゴト荷物を運んでくれるらしい。 なかには入場券を買ってプラットフォームにダダッと走り込んで、そこに止まってる新幹線のアミ棚にゲンコーの入った袋をボンッと乗せて、「今、東京行き『ひかり』○便の○号車のアミ棚にゲンコー乗せたから、東京駅で受け取ってくれ〜っ!」て電話する猛者もいる…という伝説がこの業界では言い伝えられています(笑)。

だからって北陸新幹線が早くついてほしいとは思わないですけどね。

ネズミ色のユニフォームを着たサラリーマンが席を埋める新幹線は、東京の意見を聞かないと何もできない中央集権国家日本の象徴みたいで(「おねげーでございますだ、お代官様」列車と呼んでいる)、そんなもの作るより早く地方分権を推進しておくれ。
地方から東京に出した宅急便は一日で届くけど、地方から地方に出すと二日、三日かかるところがいっぱいあるし、以前金沢から長野県へ行こうとしたら、羽田に飛んで山手線で新宿から「あずさ」に乗るのが一番早かった。金沢から中央本線に出るのはムツカシイ。そういう線路の敷き方になっている。
地方にはまず東京へ接続することが義務付けられているのです。

でも首都一極集中というのは、第三世界の発展途上国が先進国から産業や資本や社会モデルを吸収するためにとる全体主義的手法、っていうか、自国の発展を急ぐためにとる緊急避難的措置だと思う。
会社も工場も、資金を供給する銀行も、それを監督する政府もぜんぶ一カ所に集めて、それ以外の地方は人材と資源供給基地にして、国家がそれらを一括管理して無駄なく「効率よく」運営すると早く先進国に追いつける。

追いついた首都をモデルとして、そのシステムを地方に移植し、国家全体を少しずつ改変していければいいんですが、それで成功したといえるのはシンガポールくらいじゃないかなあ…。一極に集中させたシステムはたいがい動脈硬化を起こし、腐った血が全身に逆流して国家全体が腐ります。

小、中学校に音楽の時間に歌わされる「ふるさと」って曲、ご存じでしょう?「うさ〜ぎ〜追〜いし〜」って、あれ。三題目の「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」という歌詞を聞くたびに、「富国強兵」真っ盛りの明治時代に役人や政治家や学者や軍人となって活躍した人たちの苦労を思います。地元や家族の期待を一身に背負って東京に出て、いつか故郷に錦を飾ることを夢見てみんながんばったんだなあ。その血と汗と涙の上に今の日本の繁栄があるんです。
でも、日本はまだ発展途上国だったっけ?(だったかもしれない…)

一方、高島平や葛西の団地で暮らす方々には別の息苦しさがあることもよく存じております(笑)。なんで毎日ラッシュアワーにもまれて、2時間かけて通勤して、帰るのは狭い「うさぎ小屋」。マイホームを手に入れようとしたら通勤4時間を覚悟しなきゃならない(笑)。
地方へ帰ろうと思っても、仕事がない、やりたいことができない、人間関係がイヤ。地方はどうしてこんなにダメなんだと都会の人は苛立ち、一方地方から都会を見ると、あいつら自分だけイイ思いをしてる芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に出てくるカンダダじゃないか。オレたちにも極楽へ行く権利はあるんだ…と地方交付税や公共事業にすがりつくのはやめましょう。切れます(笑)。

日本中がこんなに動脈硬化してど〜するんだ〜とハラハラドキドキしていた私は、先日の長野県知事の田中康夫氏の一連の報道に大笑いしてしまいました。 田中氏は「地方政治家」としては非常識だけど、「人間」としてはあったりまえのことを言っただけで、今の日本の「地方」はシステムに収まらない「個人」をこれほどイヤがるということを、じつにビジュアルに分かりやすくパーフォーマンスして下さいました。
でも、あのオジサンかわいそう。東京が作った「これまでのシステム」を生きてるだけなんだよね。

だからね。北陸新幹線なんかもういらないの。それより野沢菜買いに長野県に行ける列車が私は欲しいの。東京の物産展で野沢菜買うより長野県で買う方が税収にもなるし、宿泊費も入るし、善光寺参りの客だって増えるでしょう?
国家だって人間だって、いっしょうけんめい生きて、オレはなんとか一人前になったかなってホッと満足してあたりを見回したころに、血行が悪くなって成人病になるのです。