「アーサー王伝説」の「危険な席」が昔から気になって仕方ありませんでした。

「円卓」に騎士たちが集まる。その円卓にひとつだけ座ってはいけない椅子がある。
それに座ることができる騎士は、「聖杯」を見出す資格を持つという。

ところが「聖杯」を探しに旅立ったものはみんな失敗してすごすご帰ってくるし、
そもそも「聖杯」がいったいなんなのか、なんの役に立つのかさっぱり分からない。
カッコイイのかカッコ悪いのかぜんぜん分からない。

椅子に座る資格を持ったガラハドは(パルシヴァルという本もあります)、
旅に出て「聖杯探索」に成功しますが、
「聖杯」を見出したとたん神に召されてあっというまに昇天しちゃう。

結局グエネヴィアは浮気して、アーサー王はモードレッドとの戦いに倒れて、
キャメロットは崩壊して、「聖杯」っていったい何だったんだ?
なんでこんな支離滅裂でワケが分からないムダなものが話の中に出てくるんだ?

でも支離滅裂でワケが分からないから、気になって頭から離れない(笑)。
私はいつか「イスをめぐる喜劇」を描いてみたいと思うようになりました。
なぜ「喜劇」かというと、なにがなんだか分からないものを描く場合、
「コメディ」にするしかないじゃないですか…?

 

 

アンリの
衣装デザイン

というわけで、私もいっちょ聖杯でも探してみるか、と旅立つことにしました。

しかしアンリ並みの不信心者の私には、純真な信者が辿る金比羅さまへの、お伊勢さまへの、或いはローマへの、サンチャゴ・デ・コンポ・ステラへのまぶしくも輝かしい巡礼の道は閉ざされておりました。

ちなみにお伊勢さまへの巡礼道には松坂牛の料理屋さんが軒を並べて通る者を誘惑し、ローマのバチカンに通じる細い巡礼道には、最新流行(?)の聖職者用ファッションやロザリオを並べたブティックが立ち並んでおります。

…とと。そんなものばかり目に入る私には、キラキラと威容を誇る大通りはまぶしすぎて、日の射さないウラ道をこそこそ行くのがお似合いです。

セルバンテスが「ドン・キホーテ」で中世騎士道のパロディを書いたように。
鶴屋南北が「四谷怪談」で忠士よ、義士よと人々から賞賛される「赤穂浪士」から
こぼれ落ちた民谷伊右衛門を主人公にして「逆・忠臣蔵」を描いたように。
(「四谷怪談」は夏に上演されて人々を怖がらせますが、あれは喜劇です^^;)

私は大通りからワキに延びてクネクネとどこまでも続く日の射さないウラ道を歩くのが、昔から大好きです。

 

最初の設定はたしかこんなフウでした。

この世の果てに神殿が立っている。そこにはたった一人の僧侶(キャスト:ヴィリー)が「危険な席」を守っている。
時は過ぎて人々は伝説を忘れ、神殿も荒れ果ててしまったが、いつか汚れなき純粋無垢な遍歴の騎士がその椅子に座って、再びこの世界に「聖杯」をもたらし、荒れ果てた世界を救ってくれることを信じて神殿を守っているうちに数百年たって、いつまでたっても黒こげの死体を始末するばかりで(^^;)、最近はチャレンジに来る騎士も少なくなって寂しく思ってるところに、森の中で化け物に襲われて道に迷って遭難した流れ者の剣士ジークを助ける(笑)。

「あなたこそ聖杯の騎士です!」 とヴィリーはなんとかジークを椅子に座らせようとするが、ジークはいいかげんな返事をしながら、壊れかけた椅子なんかじゃなくてもっといい宝物がどっかにないかな〜と神殿を物色しているうちに、かつて「危険な席」を作った魔術師マーリンがこの神殿の屋根裏にこっそり住んでることに気付く(キャスト:クルト)。
クルト=マーリンはかつて自分が作った呪いをヴィリーが信じていることに後ろめたさを感じて、神殿の下男として住み込んで、家庭菜園を作って維持費軽減に力を尽くしたりしている。「おまえがそもそも諸悪の根元だろ!」とジークはクルトを責めて、二人で漫才をやってるうちにヴィリーも加わって、三人でワイワイやってるウチに、外では魔物や怪物たちが共同戦線を張って「神殿攻略大作戦」が始まる。心ならずも三人は力を合わせて「神殿防衛作戦」を戦うことになって…。

セバスティアンの祭礼用衣装

 

 

騎士団の制服デザイン

 

 

…と書いてると、なんだかこちらの方が面白いような気がしてきた(笑)。
この頃の私の神殿のイメージは地の果ての極寒の地にそびえ立つニフルヘイムかラピュタの忘れられた要塞都市のようなイメージだったんですが、そのあと詰まっちゃって、ほったらかしにしていて、ある時その神殿を地中海に浮かべてみたらどうだろう?と思い立ったら、その方向にどんどん進んでいって、こういう話になりました。

その頃はヴィリーも髪が短くて信じやすくていつもジークにコケにされるあの純情な性格のままで、騎士団長になったら髪も伸びて性格も変わっちゃいましたね…。

というわけで、お気付きの方はとっくにお気付きと思いますが、この3人のキャラクターは「ジークフリート」に出てくるジーク、クルト、ヴィリーの三人のコスプレです。学芸会、いや仮装舞踏会かな。

最初にこの話を描いたときは、1920年代末のベルリンの場末のキャバレーで、店が終わったあとにジークがピアノを弾きながらヴィリーに弾き語りできかせる、という設定でした。商業誌に載せて不特定多数の人に楽しんでもらうにはそういうお遊びは許されませんので、前と後ろをカットして、独立した話として描きました。

幻の1ページ目はこうでした
幻の最終ページはこうです

で、あの椅子はホントに「危険な席」だったんでしょうかね?

12の席の中にひとつ座ってはいけない席がある、ということで私が思い浮かべるのは十二使徒の中のユダの席なんですが、それはたぶんケルト人たちが「アーサー王」の話を言い伝えているうちにキリスト教が加わって付け加えられたイメージだと思うんですが、世の中には座ってはいけない席がたしかにあって、だれもそれに座りたくないんだけど、だれかがそれに座らなければならないこともあるんじゃないでしょうか、ね…?

どうも私は昔から「街」が好きです。
むかしむかし「ヴェネチア風琴」という作品を描きましたが、あの主役は登場人物のジェンティーレでもマルコでもなく、ヴェネチアという街でした。

どうして街が好きなんだろうと考えると、まあ旅行するのが好きですし、
世界中にはいろんな街がありますし、それらを見ているとそれぞれ違っていて
面白いですし、どうして違うんだろう?と考えると、そこに人が生きて、
生活して、彼らの毎日を空間的、時間的に積み上げて作っていった「街」そのものが彼らの「歴史」なのかもしれない…と思いながら、いつも町を歩いているせいかもしれません。

だからヴェネチアも、
「南京路に花吹雪」や「Shan-hai 1945」で描いた上海も、
「ジークフリート」のベルリンも、
いったいどういうところだったんだろう?と地図を探したり本を読んだりして
最低限必要な資料調べはしますが、それを使って史実の上海を描こう、
というふうにはけして思わないんですね。
たとえ史実の中の街でも、いつも私の頭の中だけにある幻の街をこの作品の中で作ろう、と思って描きます。
作家なら誰でもそうだと思うんですが。
史実そのままの上海を再現しようとか、歴史的に正しい作品を描こうとか思ったら、 きっとすごくつまらない作品になると思います。
調べた資料をもとにどこにもない町を新しく作るんだ!と思わないと、
その作品はきっと失敗すると思う。
たぶん小説でも、映画でも、お芝居でも、同じだと思います。

 

 

イサークの衣装デザイン

 

セバスティアンの最初のキャラクター設定ですが、
黒髪ですね。衣装もちょっと東洋風…?

これまで「歴史」というものに興味を持って、シュミで、
あるいは仕事の資料調べとしていろいろな時代のいろいろな事象を調べて、
いろいろな本を読んできましたが、その結果
時代が変わっても
登場人物が変わっても
人間のやることって変わらないあ…。

何年何月、この国のこの場所で、この人物が…という時代考証をちゃんとしないとイケナイとされるのが「歴史モノ」ですが、
個々の時代や事件や事象に捕らわれない方が「歴史」を描けるんじゃないか。

「事件」の生成する過程を追って、その意味を説き明かしていくことで人間が見えてくる、ということもたしかにありますが、個々の事実の正確さに「価値」を置いてそれを求めることで、こぼれ落ちて失って消えてしまうモノもある。

だから今回、なるべく固有名詞が出てこない場所を舞台に、
固有名詞の人物が出てこない物語を描こうと心がけましたが、
最低限出てくるのは許してね。
ストーリーの展開には関係ないようにしたつもりですが。

これからも固有名詞の人物名、固有名詞の地名、が出てこない
「歴史物」を描けたらいいな、なんて思っています。

 

 

物語を歴史から切り離して、抽象化するという作業は、
ある意味で音楽的にするという作業かもしれないと思うんですが。
そう思うようになったのはSavallの音楽を聴くようになったせいかもしれません。

音楽が音楽以外のなにかを作る作業に与える影響というのはとても大きいと思うんですが、
とくにSavallの場合は中世やルネサンスの地中海を舞台にした音楽、
それもスペインだけではなくて、ヨーロッパやアフリカや中近東など、いろんなところから生まれた音楽が
いろんなところへ旅をして、いろんなふうに変容する、ということを教えてくれたので、
それを聴いているだけで私の心もあちらへこちらへと旅をして、
こういう作品を描けたのかもしれないな…と感謝しています。

ついでにその音楽を忠実に再現してくれたLINNのCDプレイヤーにも心から感謝します(笑)。

 

 

ところでシラクサに帰ったマリアンナは、エメラルドを売った代金でホテルとレストランを建てて
大繁盛して、仕事が終わるとカラオケボックスへ行って八代亜紀の「もう一度逢いたい」
(作詞:山口洋子、作曲:野崎真一)を歌っています。

夢は引き潮、想い出も、風と逃げてく出船町。ブイのさだめか、浮いては沈んで流されて、
すがりつく恋ごころ。情なしの移り気のうしろ影、もう一度逢いたい…。

中島みゆきより、この時代は八代亜紀だと思うので…。

日本の歌謡曲は海外のいろいろな流行音楽を吸収して、それを日本的情緒に乗せて歌って、
その時代その時代を生きる人の心を歴史に刻印してたくさんの名曲を生み出してきたんですが、
どうしていつのまに「演歌」という顧客のストレス解消に奉仕する音楽になってしまったんだろう。
もちろん時代の趨勢で会社の販売方針が変わったからですが。
亜紀さんはとても音感がよくて、リズムのある曲を歌わせると独特のグルーヴをかもしだす方で、
「サカナはあぶったイカでいい〜」の伝統的日本情緒じゃなくて、
「女港町」や「もう一度逢いたい」の日本のブルース・シンガーになって欲しかったんだけどなあ…(涙)。

 

 


2005年3月17日

 

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