風が強い。天気が悪い。これからを予言するような不穏な天気。
朝、asahi.com(朝日新聞のインターネット・サイト)を見たTeraさんから電話があっった。
「日本戦のチケットが大変なことになっています!」
何が起こっているかまったく事情を知らなかった私は、前から日本戦のチケットは大変だったよお、とのん気な返事をした。
昨日に続いて、今日もチケット狩りのパリ探索。
アドレスを握りしめて、H.I.Sパリ・オフィスに行く。
玄関にH.I.Sの表示はあるが、入り方が分からない。電話をかけようと公衆電話を探して辺りをウロウロ。
また戻ると、あれ。さっきあった日本語表示が消えている。
日本人二人がオフィスの前でカメラを構えていて、撮られた。
さすがの私も、何かヘンだぞ・・?と一抹の不安が心をよぎる。
メトロでシャルル・ド・ゴール広場へ行く。おお、凱旋門だ。懐かしい。
きのう挫折したシャンゼリゼのTourist Infomation。
観光パンフレットが積み上げられているだけで、W杯関係の資料は何もなかった。
その並びにW杯オフィシャルショップがあった。
予選リーグの組別にバッジやペナント、マフラー、レプリカ・ユニフォームなどのグッズを売っている。
日本はH組だが、H組がない。そりゃ確かに弱いが、H組にはアルゼンチンだっているぞ、そこまでバカにすることはないだろうと狭い店内をグルグル探すと、H組コーナーだけが入り口を入った正面に設置されていた。
日本のグッズは売り切れ。
店を埋める日本人観光客は、オフィシャル・ショップをDuty
Freeショップに変えていた。
シャンゼリゼを散歩して、ルーブルへ行くと、日本人観光客が列を作っていた。
「歩き方」を見ている女の子に「チケット大変なことになったようですね」と声をかけると、
「私たちも見られるかどうか分からなくて、今添乗員さんが走り回ってるんです」
この時点でも、そりゃ運が悪かったね程度の認識だった。
グランパレで「マン・レイ展」をやっていたので入る。
マン・レイは前衛写真家で、ピカソを始め画家や作家など、1920年代の黄金期のパリを飾る人物の肖像写真をたくさん撮った。
ピカソはスペイン人だしマン・レイはアメリカ人。ヨーロッパ各地やアメリカからキラ星のような人物があの時代のパリに集まっていたと思うと、「花の都」「憧れの都」「芸術の都」というパリの形容詞は本当だなあと思う。
今回シャンゼリゼやオペラ座通りを歩いていて、わ、カッコイイと振り向くのは、ほとんどアフリカ系。
イタリアかフランスのブランド物のスーツをビシッと着こなしている。
以前は国家公務員(道路清掃員や美術館の係員)以外に、アフリカ系を見た覚えがない。
この17年間でずいぶんミクスチャが進んだらしい。白人とアフリカ系のカップルもよく見るし、メトロの通路に自動販売機が置いてあるところを見ると、治安もよくなったようだ。この町はいろんなものを吸収してどんどん変化していく坩堝なんだろうか。
ホテルに帰り、夕方Teraさんが来るまで、市庁舎Hotel
de
Ville前の大ビジョンでイタリア×チリ戦を見たり、部屋でパソコンを繋いだりして時間を潰す。
コンセントは買ってきたうちの一つが合ったが、トーンにしてもパルスにしてもダメ。ゼロ発信にしても繋がらない。
あとで、ホテルはフロントに言って繋がる回線を使わせてもらわないとダメなことが多いと聞いた。
Teraさんと一緒に明日からお借りするアパルトマンに御挨拶に行く。
Bellevilleというパリの右上のはしっこにある移民街だ。
「バラ色の人生」や「愛の賛歌」で有名なエディット・ピアフはこの町の路上で生まれたという。
彼女の母親は娼婦で、彼女も有名になる前は似たような生活をしていた。
以前は女一人では歩けない怖い町だったそうだが、中国系の移民が入った十年ほど前から変わった。
中国系というのは働き好きで勤勉で上昇志向が強い優秀な民族だ。
今やBellevilleはチャイニーズ系のスーパーを始め、ベトナム料理店、タイ料理店が立ち並び、エスニック遊園地と化した。KIOSKに「Le
Figaro」や「L'Equipe」と一緒に「人民日報」が並んでいるのを見た時は感慨深かった。
「為平牛粉」というベトナム料理屋さんで夕食。
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