Shang-hai 1945

オリンピアード
が第二巻巻末に収録されています

2003年4月11日発売
講談社漫画文庫
ISBN4-06-360531-0
C0179
ISBN4-06-360532-9
C0179
600円(税別)
収録作品&初出
●Shang-hai 1945
「プチフラワー」(小学館)
1986年12月号〜
1987年10月号連載
●オリンピアード
ビッグ・ゴールド2月号」(小学館)
1998年
2月号

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真珠湾攻撃に始まった第二次世界大戦末期。
新聞記者の本郷義明は南方から二年ぶりに戻ってきた上海で
むかしその町で愛し、別れた中国人女性と再会する。
彼女は中国人医師、李光裕と結婚していた。
本郷は日本軍将校白浜中佐の命令で、白系ロシア人のサーシャとともに

日本軍の資金調達のための阿片取引に協力することになるが
日本軍、蒋介石政権、共産中国の陰謀が入り乱れる上海で
日本の敗戦は目の前に迫っていた…。

 

◆同じ登場人物が出る上海シリーズ第一弾は「南京路に花吹雪」として白泉社漫画文庫から発売中です。
◆「Shang-hai1945」の作品解説はここです。
◆「オリンピアード」の作品解説はここです。

 

 

 

 

 

 

むかし太平洋戦争前の上海で特務工作をする「南京路に花吹雪」というお話しを描きましたが、そのあと真珠湾攻撃があって第二次世界大戦が起こって…というのちの時代をその漫画に出てきたキャラクターたちはどう過ごしただろう…と思って、この作品を描いたら、思っていた通りくら〜いシンキくさ〜い作品になりました(笑)。

私はどうも「霧の中」がとても好きみたいです。
上海も海の側なのでよく霧が出るみたいですが、むかし住んでいた吉祥寺でもよく夜霧が出て、街の輪郭がボケッとして、見慣れた景色なのになんだか非現実的な世界に迷い込んだみたいになるので、用もないのに霧の中をウロウロ歩き回っていました。

この作品を描き始めた86年の頃の日本は世界で第二位の経済大国としてアメリカを蹴落とさんばかりの勢いで、な〜んにもコワイもんなしで、私たちは海外に出ると札束で相手の頬をひっぱたいて旅行してました(笑)。 だってドルは下がる一方だし、ヨーロッパ通貨は崩壊しまくってるし、強い「円」をばらまけば相手の秩序もプライドも私たちの行く手をさえぎるものはなにもない、と私たちは世界中を傍若無人に行進しておりました。

敗戦のどん底の中から立ち上がって、「高度経済成長」で日本をここまで豊かにしてくれた戦中派や戦後のみなさま、本当にありがとう!おかげさまで日本は世界で第二位の経済大国となり、アメリカはもうダメだよ〜ん!なんて、「ウサギ小屋」に住む「エコノミック・アニマル」たちは高言できるようになりました。

でも、これから日本は変わると思っていました。
だって「追いつき、追いこせ」の「高度経済成長」でもう追いついてしまった以上、これからは方法を変えて違う「豊かさ」を追求しないと、この位置から凋落するってことは、日本人は利口だからみんな分かっていますよ。私たちはビンボーにはなりたくありませんからね。

日本について暗くて否定的なお話を描いていたにもかかわらず、この頃私は日本という国がけっこう好きで、きっと変わる、きっと良くなる、日本の未来は明い、とものすごく楽観的でおりました。

…その違う方法が「バブル」だったとは…。
私は完全に日本という国を見誤っていたと、恥じ入るばかりです。

84年に海外旅行したときにたしか円は1ドルが250円くらいだったんですが、日本からの輸入超過で苦しむアメリカから、円が安すぎるから150円くらいにしなさい!と1985年の9月に「プラザ合意」の命令が下って、きっと日本のエライ人たちは「資本主義経済は平等で自由な競争じゃないか」とムカッときたんでしょうね。アメリカにしてみれば自由を与えて、これまで軍事費の負担無しに経済活動できるようにしてやったのはいったいダレだ?!てところだったんでしょうけど。

それから日本は株と土地の価値を上げて「資産価値」を高める「バブル」というマネー・ウォーズに突入するんですが、「実体のないこんな値上がりが続くわけがない」といった銀行員は、「会社に対する忠誠心がないのか」と窓際に追いやられたり、子会社に出向させられたりしたそうです。でも憲兵隊で拷問されるよりはマシだったかも。戦後50年を経て私たちが進歩したのはこれくらいだったんですね…。

日本の近代史に興味がある方なら、この「バブル」への突入の仕方は戦前の日本が中国侵略を非難されて国際連盟を脱退する経緯にそっくりで、「バブル」がはじけたあと、その後始末に失敗し続けて「失われた十年」から今に至るまでそこから抜け出せないでいるところは、日中戦争から勝つ見込みのない「対米戦争」に突入して、敗北に敗北を重ねて、講和や降伏のチャンスを逃し続けて、敵やアジアの民衆のみならず自国の兵も非戦闘員も殺しまくって、いたずらに損害を重ねて破局へ突き進んでいった「あの戦争」の経緯にそっくり、ということはよ〜くご存知のことと思います。
だから「バブル」は「第二の敗戦」といわれるんですが…。
今度の「敗戦のきのこ雲」は、あの700兆の借金が私たちの頭の上で爆発するときかなあ…と、ぼんやり思っているんですが。

日本の重くて暗い過去をこんなふうに描く勇気、というか元気は今の私にはありません。
たぶん「戦争」というのはその国の有りようがギリギリのかたちで出るんでしょうが、あの失敗をちゃんと検証して反省しなかったことが日本が同じ間違いを繰り返してしまった原因なのだろうと分かっていても、その苦々しさがやり切れない重さで深く沈んでいって、面と向かってそれと相対しようというエネルギーは、今はどこを捜してもないなあ…。

だって、この作品はハッピー・エンドなんです。
この作品を描いたとき、私は無垢な子供のように無邪気に、日本と日本人を信じていたのです。

 

 

で、「オリンピアード」ですが。

あれは「歴史ロマンDX」が潰れて「ジークフリード」がチョン切れてしばらくした頃だったと思うんですが、「ビッグ・ゴールド」(小学館)の編集さんに描きませんかと声をかけられて、「よろしくお願いします」といったら、村上龍さんの「走れ、タカハシ」を渡されて、「スポーツ漫画を描きましょう!スポーツ漫画はアンケートがいいんですよ。」

あ。これは単にアンケートを取ればいいということではなく、青年誌に女性作家を載せるというフツウしないことをすると、編集会議で反論が出やすいので、実績があるとそれを押さえて企画を通しやすくなるから、という編集さんの優しい親心です。

森川久美にスポーツ漫画を描かせるとは、なんて大胆な企画だろう…!と思いながら「走れ、タカハシ」を読んだら野球小説だったので、こりゃダメだ(笑)。
「キャプテン翼」などのサッカー漫画もけっこう読んでいましたが、熱血サッカー漫画も私にはちょっとムリだろうと思ったので、当時出たばかりだった「オリンピア」(沢木耕太郎)はどうでしょう?と了解をもらって、歴史スポーツ漫画というセンに修正してO.K.をいただきました。
「近代五種(ペンタスロン)」の解説あたりに、スポーツを素材にしたウンチク漫画を目指すという、ぷち「美味しんぼ」的私のささやかな青年漫画への義理立てが残ってるような気がしますが、「スポーツ漫画」が人気がある理由は日常の延長線上に人生の戦いを重ねあわせて、読む人をEncourageする、元気を与えるってところじゃないかな?と思うので、ベルリン・オリンピックがどーしたこーしたというまったく日常とは関係ないところでなんだかワケの分かんない漫画を描いてしまった私は、やっぱり青年誌不適格者なんだろうな〜と思います。

少女漫画ではあまり扱わない戦争やアクション物を描くせいか、「あなたみたいな作家は青年誌でもやっていけるよ」とよくいわれるんですが、むしろ女性をちゃんと描ける作家さんの方が青年誌ではやっていけるのではないかな…?

青年誌がリアリティの向こうに日常性の超越である夢を見せて読者を満足させるのに対して、少女漫画は最初から「これはウソだよ」といいながら夢の世界を展開します。あんな大きな目や長い足を描くのは、あらかじめ世界をディストーションさせて、「これはウソだよ」と入ってくる観客にご口上を申し上げているのです(笑)。

しかし創造とはすべてウソの世界の向こうに真実の世界をうち立てる作業であり、よくできた作品というのは「現実?それはしばしば真実の敵です」と「ラ・マンチャの男」が高らかに宣言したように、「現実」を通して「現実」の向こうにある「真実」を描いた作品です。
いっけん現実をそのまま伝えるように見えるドキュメンタリーも、作り手が「現実」だけを描こうとして作品を作ったら、つまらないか、まとまらなくて失敗するでしょう。

その「現実」から「真実」への迫り方の方法論が、青年漫画と少女漫画では違うのかもしれません。
これは男性と女性の資質の違いもあるでしょうし、男性読者だけ、あるいは女性読者だけを想定して作られている本に、それまで築かれた方法論とは違う描き方で描いた作品が載ると、それが受け入れられるのは難しいということもあると思います。

女性をちゃんと描ける作家の方が青年誌に向いていると思うのは、現実の世界で生身の女性を描いている漫画家の方がリアルな「人間への迫り方」をしているので、そういう作家さんの方が青年誌の世界では抵抗なく受け入れられるんじゃないかな、と思うからです。

でも「ゴルゴ13」のとなりにコテコテの女性漫画が載っていたら、「ゴルゴ」ファンも困るし、その女性作家のファンも雑誌は買えなくてコミックスを待とうかということになるし、そうこうしているうちにその作品はアンケートが悪くて切られちゃうでしょう(笑)。

かつて紫門ふみさんや西村しのぶさんが載っていた「スピリッツ」は、面白い上に漫画ファンなら抵抗できない〜!ってエネルギーに溢れていて、私も友人たちもみんな読んでいて、たぶんあの頃の読者の半分は女性だったんじゃないか…って思うんですが、あの頃の「スピリッツ」は女性層にも読者拡大を目指すという雑誌の方向性をはっきりと打ち出して、それが編集部全体に行き渡っていたように思います。
青年誌に女性作家を載せて成功させるためには、あの頃の「スピリッツ」のようにインフラが整っていないとムツカシイでしょう。

4,50ページの読み切りというのは、作家にとってはけっこう描きにくいものです。
キャラクターを描くのにも一寸足りないし、物語を描くのにも足りない。
たぶん一瞬の「情景」みたいなものを描くのが一番いいんだろうな、と思うんですが。
友人の漫画家も「100ページくらいあると、それなりにキャラクターか物語が描けるんだけどね〜」と言っていたので、そう思うのは私だけじゃないと思うんですが、新しい雑誌に描くことになると、まず4,50ページ読み切りを、といわれてしまう(^^;)。

「オリンピアード」で私が思ってたのは、カッコイイ海軍さんを描こう、ただそれだけ(笑)。
私の頭の中にあったのは、むかし読んだ夢野久作の小説に出てくるような美少年!です。

夢野久作は江戸川乱歩や小栗虫太郎などと並んで戦前に活躍したミステリー作家で、「新青年」系のちょっと耽美的な作風で、曲馬団とか仮面の怪人とか美少年とかがよく出てくるオドロ系で(笑)、泉鏡花なんかとも共通する要素があって、今文庫で「ドグラ・マグラ」とかいろいろ出ているので、興味のある方はご一読下さい。

九州出身で、父(義父?)が頭山満という右翼の大立て者だったとかで(記憶がかなりアヤシイゾ)、ちょっと政治がかっていて、第二次世界大戦前の混乱した政治状況を背景に「暗黒大使Dark Minister」とか、ヘンな作品を書いていたんです。
一番の傑作といわれる「犬神博士」には「アネサン、マチマチ」を歌うおかっぱ頭の美少年が出てきて、それを見た軍人だか右翼だかのヒゲのオッサンが「よか稚児ばい、よか稚児ばい」を連発して、なんか九州ってすごいところだな〜(笑)。
のちに九州の友人に聞いたんですが、ホントに九州って土俗的にそういうところだそうで、九州ってコワイな〜。でも、そういう九州ってなんか好きだな〜(笑)。

漫画文庫に収録するということで改めて原稿を見直したら、描きたかった作品イメージと原稿がかなり違っていたので、大幅に描き直しをしました。
この話は性格の悪い美少年がバカをやって、それが失敗しちゃって「や〜、まいった、まいった」という話なんですが(へ?)、もしナチ支配下のベルリンでユダヤ美女を助けようとする日本人士官のヒューマンな話だと思った方がおられましたら(いないと思うけど)ごめんなさい。作家のウチワ話なんて読むもんじゃないってことがよくお分かりになったでしょ(笑)。

これはイカン!と主役の岩田くんを必死で性格の悪い美少年に描き直そうとしたんですが、ついでに描き直したユダヤ人美女までキレイになってしまって、つくずく「絵」というのはフシギなものですねぇ…。
焦点があう、あわないは漫画家にはどうしようもできない。アウト・オブ・コントロールです。
作品の中でその人物に焦点があったときのみ、絵のピントが合う。
だから白い紙を渡されて「絵を描いて下さい」と言われても、そのキャラクターのイメージやお話がないと、漫画家はどんな絵も描けない。
たぶんイラストレーターや画家の方はコンポジションとか与えられた条件で白い空間を埋める才能があるんじゃないかな、と思うんですが。だから漫画家は「絵」の専門家じゃない、と私は思ってるんですが。
ときどき「絶対音感」みたいに「絶対絵画力」を持っている人もいますが、こういう人は漫画家でも画家でもやっていけると思うんですが、漫画家自体はそういう能力を必ずしも必要としない。

「描きたい!という熱意がすべてです」とかつて手塚治虫先生がおっしゃいましたが、私はこの言葉をいろんな機会に思い出して「ああ、本当だなあ」と納得することが多くて「座右の銘」にしてるのですが、漫画家に必要な画力はキャラクターやお話しに「形」を与えられるかどうかで、どんなにうまい絵でも「これを伝えたい!」という熱意がない漫画を読むのは私はあまり好きじゃないし、どんなにヘタな絵でも「伝えたい!」という熱意があれば、その漫画は必ず読む人を引きずり込んで人を感動させます。

なぜかこのユダヤ人美女を描くときに、たまたまピントが合って、造形的にキレイな女の人が描けた。
そうすると世界への「イヤガラセ」のためだけに彼女と結婚するんだと思ってた岩田くんは、じつは彼女に惚れてたのかもしれない、と原稿が完成して読み返したときに思ったんですが、印刷されたものを読み返したら、やっぱり根性の曲がってる岩田くんは、ただイヤガラセのために彼女にプロポーズしたんだろうな…。

う〜ん、結局岩田くんがゲルダのことを好きだったかどうか、今でも私は分からないんです。
作家が分からないのに、作品を描くなんていけないことかもしれないけれど、それでもいいんじゃないかと私は思ってます。

たぶん人生と世界はこんなにも分からないものだということをいうために私は漫画を描いてるんだろうと思うし、人生と世界は分からないものだから、せめて創作の世界では分かり易い作品を読みたいという考え方もあるということもよく分かっているつもりですが、でも私はよく分からないことをよく分からない描き方で描くのが好きみたいで、この嗜好はたぶん死ぬまで治らないんだろうなあ…ともはや諦めております。


 

↑第二巻の表紙です

 

「Shan-hai 1945」はカラー表紙が少なかったので(たしか二回だけ。「プチ・フラワー」はカラーが少ない雑誌だったんです)、フラワー・コミックスが出るときに表紙用に本郷さんと蔡文姫のイラストを描き下ろして(しかも燕と牡丹は使い回し^^;)、あとはデザイナーさんに指定色やロゴをお任せしたんですが、それが私のコミックスの中で一、二を争うくらい美しい表紙になりました(あの時の担当さんとデザイナーの方に本当に感謝していますm(_ _)m)。
今回もその手を使うしかないだろうと(だって今二人を描いたらまったく違う顔になってしまって、イヤじゃないですか、そういうの?)、またデザイナーさんにお手数をおかけすることになりました。すいません。かわりばえがしないとか、二番煎じじゃないかという非難は甘んじて受けさせていただきます(笑)。

今回の講談社漫画文庫では、雑誌連載時の表紙を全部入れて構成していただきました。
フラワー・コミックス(小学館)や森川久美全集(角川書店)の時には表紙を外して、足りないページは描き足して、単行本全体を一つの繋がった流れとして構成したんですが、「Shan-hai 1945」は読むのに集中力を要する作品だと思うんですが(ほかの連載漫画もたぶんみんな同じだと思いますが^^;)、一回ごとに表紙が入ってそこで流れをトン、と切って続けるほうが読みやすいんじゃないか?と私はずっと思っていて、今回は全部の表紙を入れて再構成していただいたのですが、切れ目を入れずに一気にストーリーを流したほうがいいのかな…という気もしたりして、う〜ん、ムツカシイところですね。

「Shan-hai 1945」は「プチフラワー」で連載中に本当にいろんなファンレターをいただきました。それが本当に面白くて、いや、面白いといってはいけないのかもしれません。ああ、こういうふうに読んでいただいているのか、と私自身が深く揺り動かされるお手紙がとても多くて、その記憶だけでも私にとっては「Shan-hai 1945」はとても好きで、そして大事な作品です。

初めてお会いする方や取材旅行に行った先では、私はこういう作品を書く作家です、と自分の作品をお渡しするのが礼儀なんですが、それに私は「Shang-hai 1945」と「信長」をずっと使っていたんですが、どちらもずいぶん前に絶版になってしまって、手元にある本も無くなって、「ジークフリート」は途中で切れているので人に差し上げるわけにもいかず、最近は自己紹介のときに自分の本を渡すことができなくなって困っていました。
そういう意味でも「Shang-hai 1945」が再版されたことは、本当に嬉しいです。

 

 

 

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