続・藤田嗣治について

 2006年の国立近代美術館での初めての全画業を概観出来る回顧展「藤田嗣治展」が大盛況の内に幕を閉じ早2年。この間藤田関連の出版、講演会、画集など、これまでに無い活況を呈している。藤田自身やその作品を客観的に見直そうとするジャーナリストや若い研究者の熱意に頑だった君代夫人の心もほだされ、藤田の画業を後世に残す事に積極的になっていただけた事が大きいように思う。
 藤田研究が改めて本格化した今、素人「へなちょこコレクター」が語る余地はないかもしれないが、展覧会後に感じた事などを書き記しておきたい。尚、図版については「藤田嗣治展」展覧会図録をご参照願いたい。

触覚の快感

 皆さんも2006年の藤田嗣治展をご覧になったと思う。街に貼られた「カフェ」のポスターの他にポスター、図録に使われた裸婦の画「タピスリーの裸婦」を見てどう思われただろう。
 美しいのだがエロティックじゃない。しかしこのポスターは地下鉄での掲示を拒否されたと近藤史人氏に聞いた。しかもそれは偶然にも同じ事はパリでも起こっていた。藤田は美術家救済大舞踏会(A.A.A.A)のポスターを依頼されて「私は裸体の女が両手を広げて直立している図を描いた。パリの街々に張り出されたその翌日、地下鉄道会社から撤回を申し込まれた。(地を泳ぐ)」なのだそうだ。(この時は画家仲間の抗議で無事に掲示された)しかし女の裸体だというだけで全てエロティックか?
 藤田の裸婦像を見て正直違和感を感じないだろうか。男の目線で裸婦を見れば絵画だろうと写真だろうと、客観的に対象を捉えようとしたところでエロティックにならざるを得ないが、藤田の裸婦にはそういったデフォルメが無い。これは裸婦だけではない。得意の猫も普通の猫好きならあれほどリアルに猫は描けないのではないだろうか。そんな藤田の裸婦でエロティックなのはその絵肌だ。白く滑らかな絵肌はそのまま女の肌であり、つい手を伸ばして触れたくなる。猫の執拗に描き込まれた毛並みも撫でたくなる。この画の鑑賞者は若き女の肌の滑らかさ、タピスリーの布の感触、猫の毛の手触りを楽しむだろう。
 手仕事の得意な藤田ならば視覚の快楽以上に手の触覚から得られる快感をよく知っていたのではないか。その触覚からの快感を平面の絵画で表す事に成功したのだ。この価値観は茶器などにも共通するものに思われる。私には高価な骨董陶器などはその価値がよくわからないが、評価の高い茶器は美しさ以上に手に取ってみたくなるし、きっと手に触れてみれば手放せなくなる触覚を視覚からだけでも想像させる。そして触覚の快感は個人的なもので美術館で眺めるだけでは満足できなくなる種類のものだ。

「ツグハル」か「ツグジ」か

 藤田の名前をどう読むべきか。混乱が続く原因は藤田自身が「つぐはる」「つぐじ」どちらも使っているからだ。先日藤田嗣隆氏の講座を聴く機会があったが、そこで藤田がパリ留学に出発する前に父が言ったという言葉に全てが語られていたように思った。
 「画家として名を成したらツグハル、落ちぶれて風呂屋の三助にでもなったのならツグジと名乗れ」
と、言って送り出したというのだ。藤田嗣治は次男であったので家では普通にツグジと呼ばれていたらしい。どんなにがんばっても一番にはなれない「ニ」。
 藤田は画家として名を成す為に留学したフランスでは一貫してツグハルと名乗った。ならば我々は敬意を込めて「ツグハル」と呼ぼうではないか。

画家のモチベーション

 エコールドパリの時代、意識した視線の主はもちろんフランス人だ。まずは絵の前に一人の個性を持った人間として彼らに認めさせる必要があった。小さなかわいい東洋人。または注目に値しない東洋人と蔑まれて黙っている藤田ではなかった。川島理一郎とともに、西洋を身につける努力をするとともに、個性的な事物に一目置くフランス人気質を逆手に取って奇抜な服装で存在を示した。更に徹底的に西洋絵画を学び、どのような絵画が好まれるのかを研究した。
 時代も藤田に味方をし、同じようにフランスに憧れて集まってきた異邦人達が各々の民族的文化的背景を作品に色濃く投影した個性的な絵を描いていた。既に成功していたピカソ、バンドンゲンなどに対抗するには自身の特異な背景「日本」を作品の個性に選ぶ事はパリでの成功を誓う藤田には当然の成り行きだった。
 描く対象はフランス人が絵画のモチーフには絶対に選ばないであろう、身の回りに当たり前にある風景やモノ達。だが、それらは第一次大戦後に急速に失われつつある古き良きフランスだった。技法に於いても日本画を油画に置き換えたものではなく、古いフランス絵画が持っていた滑らかな画肌を蘇らせた。フランス人にノスタルジーを呼び起こしながらも、革新的な新しさを併せ持つ藤田の絵画が人気を博すのは当然の成り行きであった。そしてフランス絵画の伝統的技法と日本的な線へのこだわりは自ずと過剰な色彩を排除し清潔感のある作品へと結実する。繊細な線を生かす為に必要だった白い背景は偉大なる白または乳白色の肌と呼ばれる独自のスタイルを生むことになるのだ。
 しかし藤田が一番認めてもらいたい相手はフランス人ではなく父親だった。サロンドートンヌ入選作品「私の部屋」で故郷に錦を飾り、父に喜んでもらえるはずだった。なのに日本画壇には認められず逆に父の尽力でなんとか作品を展示できたものの全く相手にされなかった事への落胆と怒りはいくばかりのものであったろうか。藤田は更なる成功を目指して突き進んだ。

藤田の画風はなぜ変転したのか

 大きく画風を変えたと言われる藤田嗣治だが、1914年以降いつの時代の作品でも共通する雰囲気がある。06年の藤田嗣治展展覧会図録によればパリに渡った翌年に描いた「巴里城門」で独自の画風を確立したというが私にはそのようには見えない。藤田は自著「地を泳ぐ」のなかで、
「今は埋め立てをして殆ど影、形も見られなくなった巴里周囲の堀は、東京の夫れに似て居た。巴里に着いた翌年、九百十四年の秋の或る日、軽い日和の下で一枚の風景画を描いた、砂利を運んで行く荷馬車が城門の見付に入って行く景色であった。出来上がってその画の前に立った時、それが従来の油画に見た事のない、他の模倣でなく、全く自分と自然との間に生まれた独創的のものであった事を、見出した俺は、無駄夢中になってその野原の上に、でんぐり返しを打って喜んだ。自分はここに始めて、これから先の開いて行く道の鍵を得た事を喜んだ。この画は、例え今死んでも永久に残る美術館に入る可き傑作と迄自分は信じた。」
と、書いている。
 「失われつつある儚きモノたち」という独自のモチーフの発見ではあったが、真に独自な藤田の画風について言えば実際にはその後貧苦を初めて味わった時代に金がなくて使った水彩画で自分の目指すべき絵画を発見したのではないだろうか。欧州の普通の油彩画では絵の具の色を積み上げて構築して行くような、西洋の論理的父性的でマッチョな絵画が主流だ。それに対し水彩画は東洋的な情緒性と偶然性を持っている。それは藤田が慣れ親しんだ日本の伝統的な美術とも、藤田自身の感性とも合致した。パリで西洋美術をその始まりから全て理解しようと学び続けてきた事で、同時代の西洋の画家達よりも古典に精通し、その精神を吸収していた藤田は、西洋絵画の古典技法と独自の技法を組み合わせて自身が水彩画で発見した絵画を西洋絵画の本流である油彩画に再現させた。独自の工夫の中に日本の絵画技法も盛り込まれただろうが「日本画を油絵の具で描いただけ」では決してなかった。西洋の伝統の流れの中で描かれた絵画であったからこそパリで認められ、日本では理解されなかった。
 「すばらしき乳白色」は初め静物の背景として現れる。細い描線を際立たせ立体感を表すためには陰影を持った白い背景が欠かせなかった。キキを描いた「裸婦」ではその関係が反転し、女の白い肌が漆黒の背景に浮かび上がる。これは劇的な効果をもたらし藤田を一躍画壇の寵児へと押し上げることとなった。成功を手にした藤田はしばらくその画風を反復し多量の注文画をこなして行くが、それだけでは高い評価は維持できない。
 パリ国際学生都市日本館の壁画制作をきっかけに西洋絵画を極める上で避けられない群像表現に挑戦する中で「すばらしき乳白色」の限界を知ることとなる。「欧人日本へ到来の図」、「構図」は「すばらしき乳白色」の集大成であると同時にその墓標でもあった。理由がなんであったにせよその後の中南米、日本、中国への旅は人物像に血を通わせる生命力を藤田の画に与え、欧州には無いエネルギーをもたらした。メキシコで出会った壁画運動は若い頃パリで面識のあったリベラが中心になって押し進めていた。藤田は「大衆のための芸術」に感銘し日本でいくつもの壁画作品を制作するが、これら「群像表現」と「大衆のための芸術」は戦争画に結実することとなる。
「構図」ではバラバラだった人々は物語を得て渾然一体としている。
 一見全く違う連続性のない画風の変転のように見える変化は、画家が絵画を極めようとする過程で足りない要素に挑戦し吸収して行く為に必要な変化であったと思う。

他者を常に意識した画家

 藤田の自画像には他の画家のほとんどと違う特徴がある事にお気づきだろうか。藤田の自画像と写真を並べてみれば一目瞭然。左右が正しく描かれているのだ。通常画家は鏡で自身に向き合う。鏡像が描かれる事がほとんどだ。
 それに対して藤田の自画像は鏡像を正立画像に直されて描かれている。見られている事への強い意識。父親の歓心を得るための努力は絵を描く上でも強い動機となっていたと思われる。幼くして母を亡くした藤田は自身の存在を無条件で認めてくれる母性には縁がなかった。たまにしか帰ってこない父親に認めてもらうには何かを成す必要があった。常に他者の目と評価を強く意識しながら絵を描いているように思われる。

戦争と藤田嗣治

 藤田とその絵画を語る上で戦争は避けて通れないものだ。パリへ渡った翌年には第一次世界大戦が勃発し、藤田は世界で初めての国民の存立を懸けた戦争を体験する。
 フランス革命で生まれた国民総動員令は敵味方双方で発令され、戦闘員が戦場で優劣を競う戦争は過去のものとなった。農民も工員も女子供たちも全て兵士を養い、兵器を供給し、兵を供給する戦闘を支えるシステムに組み込まれる事になる。戦闘員と非戦闘員の区別は無意味なものとなり、殺戮の対象は無差別に拡大されるのだ。その結果フランスだけで136万人の犠牲者を出す事となった。
 藤田の初期の作品に城門を通過する葬列が描かれたものがあるが、これは終戦後農地など残された兵士たちがその場に仮埋葬されたのを家族の墓地に再埋葬する際の葬列である。当時頻繁に見られた光景であるようだ。敗戦国ドイツに至っては177万人の犠牲者を出し国家体制は崩壊、過酷な賠償請求はその後のナチズム台頭の土壌となる人心の疲弊をもたらす事となった。
 そのような新しい戦争を間近に見聞きし、体験した藤田にとって、その国を離れられないのであれば、負ける訳にはいかない戦争に協力しないという選択肢は夢想だに出来ない事だったと思われる。
 だからと言って、積極的に大東亜共栄圏建設を説いたり対米戦争を主張したりした訳ではない。海軍省嘱託となり日支事変(日中戦争)に従軍するが、翌年にはアメリカ経由でフランスに戻る。自身に批判的な日本画壇、制約を受けるモチーフと顧客の不在も藤田が日本に留まる理由は年老いた父の存在であったか。だが、フランスでも平穏な画家の生活を戦争は放っておいてはくれなかった。ドイツ軍がマジノ線を超え、脱出の船上でパリ陥落の知らせを聞く事となり、日本に帰る。再出国も戦争も避ける事が出来ない事を悟った藤田はパリへの思いを断ち切り、日本人になる覚悟の印としてオカッパ頭を短く刈った。
 最初、漢口や仏印への従軍で描いたものは穏やかな風景画にしか見えないようなもので、あまり気を入れて描いた様子の無い戦争記録画だが、画材欲しさにチヤホヤする画家たち、戦争記録画の画題としての面白さ、大画面の群像表現への再挑戦等、徐々に藤田も真剣に取り組み始める。軍関係者との近しさから早い時期から日本軍の劣勢を知る事となる藤田は、負けられない国民国家間の戦争に画家として作品で協力する事は当然であり、それはドラクロワのような芸術性の高い作品でこそ達せられると信じていたと思われる。
 そしてそれはまず「アッツ島玉砕」として結実する。民衆はその絵の中の殉死に礼拝した。夏堀全弘氏の「藤田嗣治芸術試論」のなかに藤田嗣治直話として青森での巡回展の様子を次のように書いている。
「そのアッツ玉砕の図の前に膝まづいて両手を合わせて祈り拝んでいる老男女の姿を見て、生まれて初めて自分の画がこれ程迄に感銘を与え拝まれたと言う事はまだかつてない異例に驚き、しかも老人達は御賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て、一人唖然として打たれた。この画丈は、数多くかいた画の中の尤も快心の作だった。」
図らずも壁画運動が目指した民衆のための絵画が現れたのだ。これこそが目指すべき絵画だと確信しその公言をはばからなかった。
 果たして藤田は戦争協力を行ったのか?答えはイエスである。では藤田はこの愚かな戦争に国民を導いたのであろうか?玉砕という希望のない戦争逐行に国民を煽動する影響力は大きかったが、国民総動員下にあって職業的責任を全うした国民に均しくある以上の責を藤田一人に負わせて善いものだろうか。かたや職業的責任を放棄して体制に加担した者たち、言論人はどうなのか?そうした者たちが戦後藤田を攻撃する。誰も責任をとらない日本人は異端者藤田にそれを押付けた。
 今日、戦時中の日本は断絶された歴史上の出来事で現在の我々には関係のない事のように思っている人がほとんどだが、戦争の出来る普通の国にしたいと願う国民が多く存在するらしい。近隣者に迷惑をかけるからと集会の場を提供しないホテルがあるらしい。また、色々な捉え方のありそうなドキュメンタリー映画を恣意的に公開前にチェックする国会議員や、これまた近隣者に迷惑をかけるからと発表の場を与えない映画館があるらしい。更には何の根拠も無い他国の戦争に多額の協力と派兵までしているらしい。これらを放置している我々は将来起きる戦争に加担しているのではないか?藤田と同じ罪「無自覚」を我々は今犯していないか?何も行動できない私は戦争犯罪人なのかもしれない。あなたは藤田を非難できますか?

贋作

 藤田作品の鑑定は他の作家よりも高額だ。完全なカタログレゾネの不在と贋作の多さが原因だ。藤田の作品は市場での人気に反して目にする機会がこれまで非常に少なかった。更には数少ない展示会などにもこれはいかがなものかと思うモノが出品されている事がある。ネットオークションに出品されている明らかに藤田を馬鹿にしたような代物は論外として、プロでも騙されるらしい。
 事態を難しくしているのがレゾネとして利用されているビュイッソン氏の画集にも幾多の贋作が紛れ込んでいる事実と藤田自身が多くの同一構図作品を描いている事だ。金儲けのためにコピーを濫作したというよりも、あれと同じものが欲しいという客の要望に応えての事と思われるが、この事も藤田の画家としての評価を下げてしまっている原因と思われ、残念に思う。
 贋作者のそれは線を写し取ろうとして失敗しているが、藤田は薄い画布をライティングデスクに透かして「かたち」を写し取る。コピーをつくるための技法というより、薄塗りの油彩画に下書きは直接描けないので下絵を別の紙などに描き、画布には直接描くような事をしていたと思われる。その下絵を元に同じ「かたち」を再利用した作品を複数つくる事が出来るのだ。もちろんこれは写しではなく下絵なのだが僅かに異なる似た作品がいくつも出来上がる事となってしまう。中には明らかな手抜き作品もあり、贋作者を利する事となる。藤田全盛期と言われる事の多い「すばらしき乳白色」の時期にもそんな作品はあるので、それだけを見て藤田の代表作とは思わないで欲しい。
 やはり大切なのは誰のサインがあるかではなく、作品そのものの持つ力なのは言うまでもない事だろう。あまり人気のない中南米で作成された作品群にも、他の画家であれば生涯の代表作と呼ばれるにふさわしい作品も多くある。贋作を掴まされない為にも良い作品を幅広く見ていただきたい。そしてもしもあなたが藤田の作品を持っていて、何処かの地方自治体に寄贈しようと思っているなら是非、後世に贋作を藤田作品として残さない為に東京美術倶楽部などで鑑定をしてもらって欲しい。お願いします。

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