JUNE 15のDIARY 『音大って本当に必要?』

 

 今週は梅雨というのがウソのように、さわやかな毎日が続いている。このお天気もしばらくは持つらしい。真夏のようにカンカン照りでもなく、ジトっとした暑さでもないので、こんな天気は、ある意味、理想かもしれない。
 そんな気持ちのいい日の夕暮れ時、西日に照らされながらサントリーホールに向かう。私がCDの曲目解説を書いた関係で、千住真理子さんのヴァイオリン演奏会を聴くためだ。このコンサート自体、彼女の2枚目のCD発売記念のコンサートなのだが、私がこのCDの曲目解説を書いているので、挨拶がてらという感じでもあった。それにしても、たいしたものだと思う。サントリーの大ホールを昼、夜2回のコンサートで両方満員にできるようなソリストはそうザラにはいない。おまけに、コンサート終了時のCDのサイン会にはファンの長蛇の列。関係者の話しでは昼の部は400人いたという。夜も、300人以上はいたと思う。誰かが「アイドルみたい」と言っていたが、あの光景はまさしくアイドル人気。ただ、ご本人はいたって真面目で誠実な人。ひたすら一生懸命にヴァイオリンと向き合い、音楽を楽しんでいる姿はまさしくプロの演奏家の姿そのもの。それに、彼女の好感の持てるところは、単なる「音楽バカ」ではないところだ。もともと、その知的なところが買われてNHKのニュース番組のキャスターをつとめていたわけだが、彼女は音楽大学にはいかずに慶応大学の哲学科を卒業している。これって、ある意味、音楽家にとっては理想的なキャリアの作り方。大体において、音楽大学というものの存在を私は常日頃から疑っている。
 音大って、一体何のために存在するのだろう?
 音楽を教えるため?演奏家を育てるため?
 もし、こういった目的が音大にあるのだったら、その両方の目的は音大は満たしていないと思う。音大は、極端な話し、音楽も教えてはいないし、演奏家も育ててはいない。今も過去も音大に籍を置いて勉強してきた人たちの一体何パーセントが本当に音楽の意味をわかって音楽を心から楽しんでいるのだろうかと真面目に思う。皮肉でも何でもなく、音大というのは先生たちの生活を確保するためだけに必要な場所なのではとすら思えてしまう。あるいは、どこどこ音大の教授というような肩書きが欲しいから...。
 音楽を技術から理解することはなかなかできない。でも、技術の裏づけは絶対必要だ。だとしたら、その技術を音大で教える必要性もないのではないかと思う。もし、大学というアカデミズムが必要だとしたら、それは人間を育てる知識や経験という意味でしかないだろう。若い時期には経験も知識もあまりない。だかたこそ、「先生」という名の先輩の知識と経験が役にたつはずなのだが、それが、自分の体験と知識の押し付けだったらまったく意味がない。先生がもし生徒に教えられることがあるとするなら、それは、「音楽とはこんなに素晴らしいもの」ということを教えてあげること。けっして、「ショパンはこう弾かなければならない」というものではない。ショパンだって、この世の中に存在した人間の一人。その一人の人間が作り出した音楽の私たちに対する意味と価値、なぜ彼のような音楽家が歴史上必要だったのかを説明してあげるのが先生の役目なのだと思う。ひいては、それが「人間とは、人生とは、こんない素晴らしいもの」ということを教えることにつながるはずなのだが、そういったことを、一体、何人の先生が教えてくれているのだろか?
 世界ではじめてチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で女性で優勝した上原彩子さんも、音大には行っていない。行っていないどころか、彼女は高校すら出ていない。じゃあ、ひたすらピアノ・バカかというとそんなことはない。音楽の表現というのは、単なる技術ではない。その人そのものが表現されるもの。自分のヴォキャブラリーにないことばは使えないのと同様、自分の心の中にないモノは出しようがない。表現とは説得力。ことばだろうと、音だろうと、その表現でいかに相手を納得させられるかだ。かつての小澤征爾がそうであったように、世界をギャフンと言わせた中学しか出ていない日本のピアニストの心の中には技術以上の中身が詰まっているはずだ。
 音大って本当に必要なのかナといつも思う。

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