JUNE 1のDIARY 『他者の許容』

 

  渋谷のミニ・シアターの老舗ユーロスペースに『熊笹の遺言』という映画を観に行く。映画学校の学生たちが卒業制作に撮ったハンセン病患者たちのドキュメンタリーだ。1時間ちょっとの短い映画だが、淡々とした語り口と、肩に力が入るでもなくお涙ちょうだいでもなく、変な先入観を与えない実によくできた記録映画だと思う。卒業制作の自主映画とはいえ、これまでにいろんな映画祭で賞を受賞してきただけのことはある映画だ。
 国が元ハンセン病患者に対して、その政策を謝罪して患者たちに補償をするというニュースはまだ記憶に新しい。この映画に登場してくる元患者たちにしてみれば、「それでは遅い」という気持ちはありながらも、そのことばはけっして口にしない。映画に登場する現在80歳、90歳以上の元患者の人たちの若い時の映像と現在の映像を比較すれば国がこの人たちにしてきたことは明らかだ。特効薬が発見されながら、その薬の投与を意図的に遅らせられたために、彼ら、彼女らの病気がどんどん進行していった。その無念さは映画から十分に伝わってくる。
 社会が「異形」に対する偏見と差別を持つのは、どんな国でもどんな部族でも、どんな動物でもあることだ。でも、国の役目は私たち個人とは違う。今回のイラクの自己責任騒動でもわかるのだが、「自己責任」はどんな人間でも当たり前のこと。でも、だから国は何も責任をとらなくていいということではない。国の責任と個人の責任はまったく違う。そんな.論理の摺り替えで誤魔化そうとする政治家が現在の日本のトップだというのはとても情けない。偏見、差別があれば、それを排除していくのが国の役目のはずなのだが、ハンセン病の場合には、逆に国がその差別を助長していたところが救い難い(薬害エイズでも似たようなものだが)。だから、今さらという気もするが、それでも国が彼らの存在をきちんと理解し始めたことは大きい。
 私は、この映画を観て、私たちの中にある異形との共存ということを改めて考えてみた。
 ハンセン病にしても、ダウン症にしても、彼ら彼女らが差別されるのは、見た目にわかる「普通ではない」形があるからだと思う。ハンセン病が極端に弱い伝染性しかないにもかかわらず、これだけの差別とこれだけの偏見を産んできたのは、この病気が最終的に人間の身体の外見を普通ではなくしてしまうからだ。そういった意味では、小人やシャム双生児などのいわゆるフリークスと同じ。「普通ではない」ということが、彼ら、彼女らを社会からアウトサイドに追い出してしまう。でも、考えてみれば、人間っていうのは、なぜにこれほどまでに「普通でない」ことに恐怖を持つのだろうかとも思う。「個性が大事だ」と言いながら、その一方でみんなと違うことをしたりみんなと違う外見をしていると非難されたり白い目で見られる。一人一人が違うことが個性のはずなのに、人と違ったことをすると「ダメ」と社会からつまはじきにあう。社会自体がとっても矛盾したことを私たちに要求している。つまりは、「ほどほどに同じで、ほどほどに違っていればいい」ということなのだろうか?
 これは、外見だけでなく、考え方の問題でも同じだろう。相手の意見はオカシイ。相手の信じている宗教はオカシイ。肌の色が黒いのはオカシイ。太っているのはオカシイ。こうした考え方そのものが差別や偏見を産む。というか、人間はそもそも偏見や差別を持つ生物なのだろうとも思う。だから、有史以来戦争や争いごとがこの地球から絶えないのかもしれない。ただ、たとえそうであっても、できれば自分はこうした考え方はしたくない。キレイゴトではなく、自分の中にある差別意識や偏見はできるだけ取り除きたいと思っている。自分は地球上の他の何億という人たちとは違う、唯一無二の存在だと思っているからこそ(だからこそ、私が私なのだが)、他の何億という唯一無二の人たちの存在を認めなければならないとも思う。社会には自分と違う人間だらけで、まずその人たちの存在を認めることから出発しなければ、到底この社会で生きて行くことはできないのだから。基本的には、自分が.、自分と異なる「異形」に対してどこまでの許容範囲を持てるかどうかだ。にもかかわらず、最初から自分とは違う存在を認めない人たちもこの世の中にはたくさん存在する。ナチスドイツの場合もそうだし、現在世界中で起こっている戦争も、元を正せばそれが原因だろう。「一体どうして?」と思うのだが、それも人間、あれも人間なのかもしれない.....。

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