MAY 2のDIARY 『アドリブを教える意味』

 

 昨日のアドリブ・クリニックには、初回の三十人近い参加者には及ばないものの十人以上の参加者があって、クリニックとしては盛況だったと思う。ただし、参加者が多いということは、一人一人の参加者の充実度がそれに比例して減っていくという側面も持っているので、その辺は十分考えていかなければならないことかもしれない。
 私がこのクリニックを始めてから言われた意見が大きく分けて2つある。一つは、素直に「面白いことをやっているじゃない」と言って歓迎してくれるものと、もう一つは、「アドリブなんて教えるもんじゃないのに、何でそんなことをやってるの?」という若干シニカルな意見だ。最初の感想を持つ人は、音楽関係ではない人に多い。彼らは素直に面白がってくれる。しかし、音楽関係者には、意外に否定的な人もいる。アドリブそのものを否定はしないまでも、「アドリブは教えるものではない」と頭から決めつけている人が多いからだ。確かに、こうこうやってこうやればウマクなるよというシステムが即興演奏にはあるわけではないので、「教えるものじゃない」という意見も、ある意味、正論のようにも聞こえる。しかし、私には、この考えには、ある種の思い込みがあるような気がして仕方がない。
 そもそもこういう意見を言う人たちは、アドリブ(=即興演奏)の意味をかなり狭く考えているのではないかと思う。アドリブを教えるというと、「それはジャズですか?」と聞き返す人がけっこういる。それに対して、私は、「ええ、まあ、ジャズもそうですが、もっと広い意味でアドリブを教えているんですよ」と答える。でも、おそらくこの答えで私の真意を理解してくれる人はほとんどいない。
 音楽というのは、ある意味、人生そのもの。でも、生身の人間は必ず死ぬ。それは、肉体に始まりがあって終わりがあるから。しかし、物体ではない音楽には、始まりも終わりもない。もちろん、具体的な一つの音楽作品には始まりがあって終わりがあるけれども、そもそも音楽というモノには、人間の一生よりも長い長い時間の流れが存在しているような気が私にはしてならない。だからこそ、音楽はすべてアドリブだとも私は考えている。なぜなら、音楽とは、人間の一人一人が生きている間に起こるさまざまな考えが、ある瞬間瞬間に音に託して表現されるとてつもなく崇高な行為だと思っているからだ。
 人類が地球上に現れるよりも前に地上には音があった。そして、その「音」は、オゾン層を大気圏に覆われた地球でこそ存在できたもの。地球の気圧が海上表面で一気圧だという恵まれた自然条件だからこそ「音」は存在できたわけで、おそらくこの銀河系の星の中で地球だけが持ち得たモノだと思う(空気がなければ「音」は存在しない。ほとんど気圧のない宇宙で「音」は存在しない)。そして、その地球の上に存在する人間がその「音」で作り出したモノが「音楽」。
 それでは、その「音楽」で、人間は何を表現しようとしたのか?「神?」「自然?」「生誕?」「死?」「祈り?」「愛?」「争い?」。おそらく、そうした人間の心の中や外で起こるさまざまなことを表現するために音楽というのは必要だったのだろうと思う。人間が「ことば」を発明するはるか以前から.....。
 でも、それって楽譜を見ながら演奏したのだろうかとも思う。おそらくそうではないだろう。それがどんな儀式であっても、どんなに音楽のスタイルが決まっていようとも、現在のような形での楽譜を使った演奏だったとは到底思えない。<音楽=楽器で楽譜を見ながら演奏するもの>という考え方は、きっと十九世紀以降に一般的になったのではないかと私は思っている。現在のようなグローバリズムとは違う意味で、ヨーロッパの社会でモノや人が一挙に国境を越え交流が始まった時期に、音楽もそれと一緒にグローバル化していった。その結果、どこの国でもベートーベンやショパンやブラームスが演奏されるために楽譜という媒介が必要になったのだろうと思う。ただし、だからといってクラッシック音楽からアドリブが一挙に消えてなくなったわけではない。リストだってショパンだっていつも即興で演奏していたはずだ。だって、彼らはピアノの名手だったのだから。それを楽譜に直せばあんな難しい楽譜になってしまう。バロック時代のせいぜい二十人ぐらいのオーケストラ。十九世紀の百人近い数のオーケストラ。百人がいっせいに即興演奏なんてできるわけがない。でも、バロック時代に即興演奏は当たり前だった(それこそが「音楽」であり、それが実行できる時代だったからだ)。
 要するに、すべての物事が十九世紀のヨーロッパで大変革した。そのおかげで、音楽も変わった。楽器が発展し、演奏技術も発展した。そして、楽譜も息もつまるほど高度になってしまったのが十九世紀音楽。そして、その反動で、二十世紀の音楽は、それらを一挙に否定しにかかった。二十世紀に、現代音楽のありとあらゆる実験が始まる。そして、ことごとくそれらは失敗する。失敗した理由はただ一つ。理屈で考え過ぎたから。
 二十世紀の音楽がそれまでの音楽を否定するやり方はいつも理論から出発していた。だから、説得力を持たなかったのだ。理論的には正論のはずの共産主義という考え方も、それが本当の人類の幸福を得るモノには結びつかず、大多数の人々の支持を得られなかったのに、ある意味、似ている。人間は「考える葦」だけれども、「考え」だけで生きているわけではない。十九世紀合理主義やテクノロジー万能主義が陥った落とし穴は、「人間も<始まりも終わりもない>自然の一部」だという事実を忘れてしまったことだと思う。すべてが理屈で解決できるという思い込み、あるいは思い上がりが人間の中に芽生えた時に人間は自然から離れていった。その考えに支配されていたのが二十世紀の音楽でもあった。
 ただ、人間もまんざらバカではないと見えて、二十世紀の後半になってやっと「自然だ」「環境だ」「スローだ」「ヒーリングだ」と言い始めた。でも、ここで大事なのは、十九世紀、二十世紀に私たちが犯した間違いを二十一世紀に改めるのであれば、理屈ではなく、本来の人間の求めたモノ、始まりと終わりのない自然の営みの中での音楽ということにちょっとばかし私たちが気がついたことだ。そして、その結果起きたのがヒーリング音楽のブーム。私たちが今ヒーリング音楽と呼んでいるものは、本質的にはすべて「ルーツ音楽」ばかりだ。アイリッシュにしても、雅楽にしても、中国音楽にしても、みんな楽譜偏重の西洋音楽の影で埋もれていた音楽がここに来て見直されただけの話し。そして、楽譜や技術に頼る音楽だけが「音楽」なのではないということにようやく気づいただけの話し。
 もちろん、これ自体は単なるブームなのでいつかは終わる(大体ヒーリング音楽なんていうモノは存在しない)。しかし、このブームの中にある音楽の本質論はあくまでずっと残しておかなければならない。それは、本当に自分たちに必要なモノは、理屈なのではなく、自然と人間、そしてそこにある「音」という三者の関係を表現していくことが「音楽」の本質なんだということ。
 私がいつもクリニックで本当に教えたいことは、アドリブをどうやるかという技術の問題ではなく、音楽とは本質的にこういうモノであって、それは常に即興的に演奏者の一人一人が作り上げていくものなんだということ。どんな技術であっても、努力すれば人間が獲得できないものは何もないと私は思っている。だからこそ、人間には技術をどう使うかという「本質論」が最も大事になってくる。ただ、残念ながら、「音楽の本質」を理解して技術を使っている人が一体どれだけいるのだろうかと思う。「人生とは何か?」という問いかけがあって始めて人間は人生の意味を探り、そして答えを出そうとする。だからこそ、人は泣いたり怒ったり喜んだりできるのだろうと思う。だとしたら、「音楽とは何か?」という問いかけが常になければ、音楽の中に「悲しみ」も「喜び」も「怒り」も表現することはできないのじゃないかと思う。この根本的な問いかけがあって始めて、楽器の演奏技術は有効になるのでは?と私はいつも思っているのだけれども。

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