MAY 17のDIARY 『「ラスト・サムライ」とdiscipline』

 

 『ラスト・サムライ』を観て気づいたことがいくつかある。明治維新から十年もたっている時代に九州の山の中に平家の落ち武者のように侍たちが秘かに村を造っているといった設定は少し無理があるかナとは思ったし、いくつかの細かなディテールに「?」と思うことはしばしばあったけれども、全体としては、この映画なかなかよくできている。なかでも特に私が印象深く思ったのは、武士道を「discipline」ということばで説明しようとしている点だ。
 昔の日本人がすべて武士だったわけではないし、むしろ武士などという身分は少数派の特権階級なのだけれども、それでも、武士道の特性を現すのにこのdiscipline(ディシプリン)ということばほど適格なことばはないと思う。このことばは普通、訓練、規律、鍛練という風に訳されることが多いが、映画の中では「己に対する厳しさ」という風に解釈されていた。そして、そういう解釈の方が適切だし、その辺のことがよくわかっているからこそ、トム・クルーズらこの映画の製作者たちは、アメリカ人が最も苦手なディシプリンということばを体現している侍たちの姿に魅力を感じてこの映画の作ったのではないかと思う。最終的に、このディシプリンの精神が西洋の合理主義の弾丸に負けてしまうところを、十九世紀の終焉、あるいは歴史のアイロニーとして描いているところも共感できた部分だ。しかも、この映画のラストサムライ(渡辺謙)が死んだ後、ミカドは彼の意志を若干ネジ曲げ、西洋帝国主義者たちの植民地化を排除し、逆に自分たちが帝国主義になって中国や東南アジアを植民地化していくという後の歴史まで示唆しているのもなかなかよくできている。本来、こういう映画は、日本人が自分たちの手で作らなければいけないモノでもある。
 今、スローライフとかスローフードとかいった自然回帰みたいなことが盛んに言われているけれども、そうしたモノは、このラストサムライの時代以前の日本には当たり前のように存在していたと私は思っている。しかし、そうしたモノも、明治以降、ラストサムライたちと一緒にどこかに消えてなくなってしまった。日本は、維新後、西洋近代合理主義に犯されて洗脳され、日本の土地すべてを都市化しようとする。本来は、都市と農村という考えそのものが西洋的な概念で、日本にはもともとそういう考え方はなかったはずだと私は思っている。西洋の都市は必ず城門や城壁に囲まれていて、そこから出れば農村、そこに入れば都市という風に、都市自体が箱庭のように隔離されていたのだ。しかし、日本の都市と農村は、それほどくっきりとは分かれていなかった。城を中心の都市作りではなく、もともも農村というものがあって、その農村を守る守護神のように城(権力者の館)があったという方が正確なのだろうと思う。ラストサムライが排除されるのと同時に、明治の日本の権力者たち(イギリスに都市の視察に行ったのは岩倉具視たちだ)はイギリスの工業都市をモデルにして都市化をどんどん進めていった。まあ、それが戦後の高度成長期で完了したということなのだろうが、日本が数千年かけて作った街や文化がこの百年ちょっとでまったく壊されてしまったのかナと思うとちょっと悲しくなる(日本の都市化には道路などのインフラへの投資が最優先、という明治時代の政治家のような考えを未だに持っている政治家が今の国会の中におおぜいいることも驚きだ)。それに加えて、ディシプリンということばも今の日本ではかなり死語になりつつあるんじゃないだろうかと思う。西洋人が日本人をホメる時に、彼らは、必ずこの単語を使う。「日本人は礼儀正しくって、ディシプリンのたくさんある国民だ」。ウム、今こんなことを言われても、「それって単なる社交辞令じゃないの?」としか思えない。
 出世という階段を昇らなければ成功者とは言えないサラリーマン社会、官僚社会の日本で、どれだけディシプリンのあるトップや官僚がいるのだろうかとも考えてしまう。ディシプリンのある人とは、自分に厳しく他人を許せる人のこと。しかし、実際の会社や役所には、部下の手柄は私の手柄、私のミスは部下のミスといった御都合主義的な処世術(これを役人的というのかナ?)が溢れているのではないだろうか?本当にディシプリンのある人は、自分の手柄を部下の手柄にしてあげたり、部下のミスを自分のミスにしてあげるぐらいの度量も持っているはずで、それが本来のディシプリンということばの意味だったはずだし、ラストサムライ以前の日本には、それが当たり前のように存在していたのではなかったのか......?
 自然を極力排除して、そこから完全に乖離した「箱庭」のような都市を作ってきた日本の近代化。そして、都市生活にはそぐわない年寄りを排除して核家族を作り育児に無知な親を大量生産したおかげで、親が平気で子供を殺すようになってしまう。でも、多分、あれって「殺してる」という実感はないのかもしれない。だって、自分が親になるまで「死」の体験はほとんどしてきていないのだから、「死」の実感なんて持ちようがない。人間は生まれたらいつかは死ぬと頭ではわかっていても、回りに実際に死んでしまった人がいない限りその実感は湧かないし、冷たくなってしまった身内の体温を肌で実感しない限り「死」はヴァーチャルな域を越えないものだ。
 自分に厳しく、自分の生きる責任は自分で果たす覚悟をしなければ生きていけないのが本来の人間のはず。そんなベーシックなことすら今の日本人は忘れてしまっているのだろうか?ディシプリンということばは、もはや日本には存在しないのだろうか?
 『ラストサムライ』を観て、ふとそんなことを考えてしまった。

ダイアリー.・トップへ戻る