APRIL 21のDIARY 『シューシューの一年目』

 

 私の愛猫シューシューがこの世を去ってから昨日でちょうどまる一年。いつも私の回りにいることが当たり前だった時間が23年もあったくせに、たった一年で彼女がいない時間と空間が当たり前のようになってしまった。別に、そんな自分がイヤだというわけではないが、もっとシューのことを日常的に思い出すかと思っていたら、意外と自分一人だけの時間や空間がアッサリと過ぎていく。
 人は日々変わっていく。だから、一年前の自分と今の自分はまったく違う自分なのだろうか?
 そんなことはないだろう。違ったところもあるだろうし、まったく違わない自分もここにいる。
 そう言えば、一つ気づいたことがある。私は、シューシューがいなくなってから、あまりスーパーに行かなくなった。あい変わらず毎日料理は作っているのだから、素材を買いに行かなければいけないはずなのにあまり近所のスーパーには行かない。どちらかというと、コンビニとか、デパ地下で買い物をするようになってしまった。それがなぜなのかと深く考えたことがなかったが、最近やっと気がついた。近所のスーパーに買い物に行くとイヤがおうでもシューシューのことを思い出さざるを得ないからだ。
 23年間毎日のように、アジやササミを調理して与えていた。缶詰のネコエサをあげることもあまりなかった。もちろん、固形のペットフードもほとんどあげたことがない(ちょっと長い間家を開ける時だけは仕方なくあげていたが)。アジやササミの調理とはいっても水煮をしてあげるだけなのだが、それでも毎日毎食となると大変と言えば大変だしエサ代もばかにはならない。だから、スーパーでアジが安売りしていたり、おいしそうなアジがあるとたくさん買って、臓物を取り、頭をとってよく冷凍したりしていた。
 今でもスーパーの魚売り場の前を通るとついついアジを見てしまう。で、そのたびに「ああ、アジを買う必要はないんだ」と自分自身に言い聞かせる。多分、そんな時ぐらいだろう。シューシューがいないことを思い出してふと寂しさがこみあげてくるのは。家中至るところにシューシューの写真を飾ったりはしているが、そんなモノは所詮写真にしか過ぎない。鳴いてくれるわけでもなし、飛びついてくるわけでもない。だからと言って、変に感傷的な気持ちになることもほとんどない。きっと近所のスーパーが一番いやなのかもしれない。シューシューといた日常を何気なく思い起こさせるモノがそこにあることがきっとイヤだと私の心の奥底で叫ぶものがあるせいなのだろう。
 思えば、先日16年ぶりに会ったアメリカ人の友人と知り合ったのも、ミシガン州のランシングという町だった。その町で飼い始めたネコだ。その当時大学院生で結婚したばかりだった彼らもすでに3人の娘を持つ親になっている。私はと言えば、そんなこともなく、いまだに一人暮らしを続けているのはシューシューとの時間があまりにも長かったせいなのだろうか?
 人は日々変わり続けている。だから、私がこれからどう変わっていくのかを、シューシューがどこかで見ているというのだろうか?

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