APRIL 18のDIARY 『自己責任?あれ?』

 

 16年ぶりにアメリカの大学院時代の友人とその娘さんが日本に遊びに来たので会った。最後に会ったのが16年前でその直後に生まれた長女が今年高校2年生。もちろん、その娘さんとは初めての対面。両親のどちらに似ているかなと思ったが、意外にどちらに似ていないことにびっくり。私の友人は現在ニューヨーク州の小さな大学でピアノを教えている。ただし、今回来たのはその彼の奥さん(夫婦ともにウィスコンシン州出身のアメリカ人で私の親友ともいえる人たちだ)。
 彼女と16年ぶりに積もる話を、と思ったのが若干妙な具合に事態が進展してしまい、本来話そうと思ったことが話せずに終わってしまったのだが、その中で彼女から言われた一つのことばが妙に心に残っている。
 「日本人は変わった」。
 うん。私も最近そう感じている。あまりイイ意味ではない。日本人が変わったといった時の彼女の顔はやけに悲しそうだった。以前彼女が思っていた日本人の印象は、「親切で、勤勉で、真面目で、賢くて、健康的で」うんぬんといった普通のアメリカ人にはないプラスのイメージ。彼女は以前こうしたイメージを日本人に対してたくさん持っていたのだが、最近の日本人にはそうした特徴をほとんど感じなくなったという。そして、最近は同じような意見を他の外国人からもたくさん聞く。外国人ならずとも、私もそう感じていることだ。スローフードなんてことばを使うまでもなく、日本の食事は基本的に長い間スローフードだったし、模範的な健康食だった。教育レベルや勤勉さは、世界のトップレベルだったはずなのに、今は逆にアメリカにさえ追い抜かれてしまっている。実を言うと、私がアメリカで大学院まで行って修士まで取れたのは半分ぐらい日本の教育レベルのおかげだ。つまり、こういうこと。
 アメリカでは大学院に入るためにGRE(Graduate Record Examination)という試験を全員受けなければならない。この試験科目は英語と数学だけ。英語は彼らにとってはすなわち国語。この問題の量とその難しさは外国人だけでなくネイティブのアメリカ人にとってもハンパではない。私は午前中いっぱいかかっても、英語の問題を全問解答することはできなかった。はっきりした点数は未だによくわからないが、おそらく30点もとれていなかったことだけは確かだ。それなのに、なぜ私が大学院に行くことができたかと言えば、もう一つの科目、数学のおかげだ。このGREの数学問題のレベルは日本の中学三年ぐらいから高校二年生レベル。私はこの時ほど日本の数学のレベルが高かったことを感謝したことはない。この数学で点数を稼げたおかげで私は大学院に入ることができた。
 しかし、今も同じことが起こるかと言えばそれはかなり疑問だ。現在の日本の数学能力は先進国でもかなり下のレベルにまで下がってきている。おまけに、これまでの日本人の美徳の一つでもあった忠誠心や忍耐、努力といったほとんど死語になりつつあるような概念がこの国から姿を消すことによって、日本人の中から「何か」が確実に変わりつつある。
 イラクで人質になった人たちのことが毎日メディアをにぎわしている。その中で、最も不思議なのが、「自己責任」ということばが飛び出す時。アレ?と思ってしまう。「いつから、日本人は自己責任なんてことばを使うようになったの?」。
 大体、日本人のこれまでの生活や社会にこれほど似つかわしくないことばもない。何をやるにも、他人と同じ行動をとり、皆と同じように考えて、皆と同じような価値観を持ちましょう的な教育をしてきた国で「自己責任」?アレ?アレ?アレ?だ。
 自己責任というのは、まず「自己とは何か」を教育してから、その「責任」の所在と内容を明確にして、その対処の仕方を教えるもの。そんな教育を今の日本のどこでしているというのだろうか?会社でミスをした人間が個人で損失を補填したりすることがあるのだろうか?会社を倒産させた社長がその損失を自分の預金から穴埋めするようなことがあるのだろうか?国のお金(つまり税金です)を使って建てた施設の赤字をその責任者(つまりエライお役人の人ですが)が自己責任で補填したりすることがあるのだろうか?
 個人の責任は家庭の責任であり、集団の責任。どうせ会社が、どうせ誰かが、どうせ社会が後始末をしてくれるという意識を小さい頃から教えられてきたこの国の人間が、今さら「個」とか「個の責任」論をどうやって展開するというのだろうか?すべてが、右に習えの教育と社会構造を作ってきた人たちが、今さら急に「自己責任」なんてことばをよく口にできるものだと思う。
 片や、社会と個人の関係をほとんど理解せずに情動的に自分勝手に突っ走る若い「個人」たちと、片や、国家の首長たる人間はその社会に住む一人一人に「個」の意味と「社会」の意味をきちんと説明する義務があるはずなのに、それをまったくしない「個人」の存在の両方に私は違和感を覚える。それは、そのどちらもが本来の日本人ではないような気がするからだ。日本の社会の「何か」、あるいは、日本人の「何か」が着実に変化している。この違和感は、私にとってはとても居心地の悪いもの。でも、「人間や社会は常に変わるもの」。だから、ほうっておけばいいのか?あるいは、いつかこれも本来のあるべき方向に修正されるものなのだろか?

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