MARCH 17のDIARY 『人は日々変わる』

 

 春という季節が苦手だ。別にこれといった理由があるわけではないのだが、毎年春が来るたびに多少憂鬱になる(そう言えば、この憂鬱という漢字をいつまでたっても書くことができないが、世の中にこの漢字を書ける人が一体どれだけいるのだろうか?辞書で見てもこの漢字の正体が未だにわからない)。
 春は「木の芽時」と言って、植物達の発芽期だったり動物たちの発情の時期でもあるのだから、同じ動物である人間の情緒も不安定になるのは当然のことなのかもしれない。だから、私もこの時期つられて憂鬱になったりするのだろうか?
 ただ、小さい頃からずっとそうだったのかと言われると途端に自信がなくなる。アメリカにいた頃は北国のミシガンに長くいたせいか、雪が溶けて木々や植物がいっせいに花開く春は本当に生きていてよかったと思ったはずだから、ひょっとしたら、アメリカから日本に戻ってきて以降こうなったのかもしれない。お正月にしたって、私は正月が大キライと自分で思い込んでいるが、本当に昔から正月がキライだったのかと問われるとこれまた自信がない。小さい頃の実家での正月はそれなりに楽しみだったような気もする。となると、春が苦手とか正月がキライとかいった自分の思いは、ただ単にそう自分に言い聞かせようとしているだけのことなのかもしれないとも思う(いわゆる思い込みというヤツかもしれない)。
 昨年、例のベストセラーの本「バカの壁」を読んだ時に思ったことがあった。ふだんの養老孟司さんの著作とはうって変わってとってもわかりやすい本だナという印象と同時に、彼の言う「情報は不変だが、人は日々変わる」ということばが非常に心に残った。寝て起きた自分は昨日までの自分と違う。これは私がいつも感じていたこと。朝起きるたびに毎日生まれ変わっていると思う人は多分いない。昨日までの自分と今朝起きた自分が同じ人間だということが自分の記憶の中にインプットされているからだ。でも、私は時々これを疑う。そして、昨日までの自分と今日の自分はまったく別のモノという意識を毎朝持つようにしている。ひょっとしたら毎日毎日自分の記憶を意識的に消し去ろうと努力しているのかもしれないとも思う。昨日悩んでいたことは寝ると半分ぐらいは消え去っている。長い間悩みをひきづる人にとっては何とも便利な頭の構造のように見えるかもしれないが、これは自分の意識の問題というよりも身体的な問題なのだと思っている。つまり、十代の頃の肉体とは明らかに違っているのに、人間は十代の頃の記憶をそのまま持っていてイイのだろうかと私はいつも思っている。人間が年をとっていくという問題を考える時、自分の意識や記憶は若い頃からそのまま継続されているのにも関わらず肉体だけが老いていくという風に解釈すると老化は拷問でしかない。まるで、鉄格子の中に縛られた状態で放置されているぐらいツライことに思えてくる。生きることそれ自体が拷問では、誰も生きることに希望を持たなくなってしまう。逆に、肉体が毎日変わるから意識も変わるという風に考えた方が人間は楽に生きられる。
 以前「エトワール」というバレリーナたちのドキュメンタリー映画を観た時、ある一人のエトワールがこんなことを言っていた。「若い時には表現できなかったモノが年を取るにつれて表現できるようになってくる。でも、肉体は確実に老いていく。バレエというのはピークがかなり若い時に来る芸術なので、私たちはその肉体の老いと表現力のジレンマ(反比例ということばを映画では使っていた)にいつも悩まされている」。
 それは音楽でもまったく同じだとその時思った。キャリアを長年積んだ状態で肉体だけが若くなってくれれば理想的なのにという思いは人間誰しもが持っているハズだ。でも、これってある意味オカシイ。若い時にできなかった表現が年をとるとできるようになる。つまり、肉体が変わったからこそ表現が変わったんじゃないの?と思う。指が以前ほど動かなくなったからこそ、それをまったく違った表現でカバーしようとしているだけなんじゃないのだろうか?
 人間は日々変わっている。昨日までの自分と同じ人間だと絶対に思わない方がいい。昨日までの自分と同じでなければいけないと思った瞬間、今日という時間がいっぺんにツマラナイものになってしまう。日々生まれ変われるからこそ、今日が昨日より楽しいし、今日寝てしまえば明日はもっと楽しいことが待っているかもしれないと思う。

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