JANUARY 7のDIARY 『フルート音楽革命宣言』

 
 私が数十年このフルートという楽器をやってきてずっと不満に思っていることがある。それは、この楽器のレパートリーの狭さと音楽性のなさだ。
 これって楽器のせい?それとも、楽器そのものに力がないの?あるいは、フルートという楽器はそれだけのモノでしかないの?
 ショパンのピアノ曲を聴く。ただひたすらピアノの音に酔いしれる。ピアノという楽器を知り尽し、そしてピアノという楽器を本当に理解し、ピアノをとことん愛した人が作った音楽。だから、私たちが聴けば「素晴らしい」と思うのは当たり前。別にショパンやリストだけじゃない。キース・ジャレットやチック・コリア、ビル・エヴァンスでピアノという楽器の素晴らしさを知ることもできるし、クレイダーマンやアンドレ・ギャニオンでピアノの美しさを知ってもいい。要するに、ピアノという楽器の素晴らしさは、世界中の誰もがその豊富なレパートリーや名プレーヤーの演奏から知ることができるのだ。しかし、それと同じことがフルートという楽器でも起こるのだろうか?
 私は、これに関しては「?」と思わざるを得ない。自分が何十年とフルートという楽器をやってきても、この疑問符はいつまでも消えない。それどころか、ますます懐疑的になってくる。何で世の中のフルーティストは、この狭いレパートリーだけで満足しているの?フルートって、バロック音楽や近代、現代音楽、そしてほんのちょっとのジャズやラテンだけで十分なの?それだけの楽器なの?
 多分、世の中のプロのフルーティストの大半の人たちはこの部分に対して何の疑問も抱かないのかもしれない。バロック音楽ができれば十分じゃないか。ショーロやボサボバやサルサをやってれば楽しくてイイじゃないか。現代音楽の超絶技巧ができるようになればそれだけでイイじゃないか、.....。
 でも、それって奏者一人一人にとってはそれでもいいかもしれないが、そういう音楽を聴かされるリスナーにとってはどうなのだろうか?
 バロック音楽でメシが食える人(本当にそんな人がいるんだろうか?)、ラテンの演奏でメシが食える人(これは若干いるかもしれない?)、現代音楽でメシが食える人(これは、絶対にいない!)、ジャズでメシが食える人(これもちょっとはいるかナ?)たち本人にとってはそれでいいのかもしれない。でも、ただそれを続けていくだけで、私たちがショパンのピアノ音楽を聴いて「ピアノって何て素晴らしいんだろう」と思ったり、アンドレ・ギャニオンのピアノを聴いて「ピアノってとっても心地よくってステキ!」と思うような現象がフルートでも起こってくれるのだろうか?
 私はきっと起こらないだろうと思う。フルートという楽器はただ単に少数のマニアのやる楽器。そして、そのファンも少数のマニアだけ。きっと、そういうぬるま湯のような状態がずっと続いていくのだろう...。
 これはとてもモッタイないことだ。というか、どこか根本的に間違っている。フルートっていう楽器はそんなヤワな楽器じゃない。おそらく、フルーティスト自身が、フルートという楽器の可能性を信じていないような気がする。楽器の可能性や表現力を過小評価し過ぎているような気がする。
 それは、きっとフルートという楽器がオーケストラの中で有効に使われ過ぎてきたせいなのかもしれない。とても便利なオーケストラ楽器(もう、ほとんどオーボエと同じような)。そうした使い方に、奏者や作曲家が満足してしまい、そこから他の可能性を探そうとしてこなかったせいなのかもしれないとも思う。
 ラベルに「ダフニスとクロエ」という作品がある。印象派特有の淡い下地の上にラベル特有の見事なオーケストレーションで(つまり、いろんな楽器で)カラフルな色あいがつけられていく素晴らしい音楽だ。その曲の最初に2本のフルートが48分音符の12連で動く(つまりメチャクチャ早い)パッセージがある。単純に言うと、1秒間に12個の音を入れなければならないぐらいの早いパッセージだ。でも、せっかくそれだけ早く指を動かしても、一つ一つの音は聴いている人の耳には届かない。というか、聞こえる必要もまったくない。そういう早い音の動きがひと塊の音の集団になって何となくけだるくまどろむような雰囲気を作っているだけなのだから。
 こういうフレーズはとてもフルート向きだ。だからこそ、ラベルは、この曲の先頭にそういう動きのフレーズをフルートにさせたのだろうし、ドビュッシーは「牧神の午後への前奏曲」でフルートのけだるい音色を生かしたソロから曲を始めた。多分、ここら辺からフルートという楽器の音楽は一歩も前進していない。
 二十世紀には、それこそ無数の現代曲のソロ作品がフルートのために書かれた。それなりに面白い曲もあるし美しい曲もある。でも、それはそれ。それなら音楽全体(地球上のありとあらゆる音楽)の中でフルートの存在価値が高まったのだろうか?あるいは、世の中にフルート・ファンが増えたのだろうか?
 私はアメリカの大学で助手としてフルートを教えていたことがある。私の受け持った生徒は二十人。もう一人の助手も二十人。そして私の先生が三十人。つまり、70人ものフルートの生徒がその学校にはいたことになるのだが、そのうち男性は、私、もう一人の助手、そして私の先生の3人だけ。何の事はない、教える側がすべて男性で教わる側はすべて女性だったということだ。別に、これは私がいた大学だけの特殊な事情ではない。アメリカ全体の音楽学部やコンセルヴァトワールの状況もほとんど同じだろう。そして、日本も世界も似たり寄ったり。何で?
 フルートという楽器はよっぽど女性的な楽器と思われているのだろうか?そんなに音がか弱くて女性的なのだろうか?
 確かに、一般的なフルートに対するイメージは、「優しい音色」「美しく繊細な音」。そういう音色で奏でられる優雅でエレガントな音楽を想像する人が多い。ちょうど、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」や、ヘンデルの「フルート・ソナタ」のような作品の音がその典型的な例だろう。
 「まあね」と私は思う。それはそれで別に間違ったイメージだとは思わないし、それが悪いともけっして思わない。「でも....」と私は思う。
 「それだけじゃないんだけどナ....」。
 フルートという楽器は、その構造からいって音のアタックは必然的に弱い。最低音はピアノのまん中のド。それより下の音は出ない。つまり、かなり高音域の音しか出せない楽器だ。だから、メロディ楽器としては重宝される。オーケストラではいつもメインのメロディを受け持つことになる。それはそれでいい。ただ、フルートにはまったく男性的なところがないかというとけっしてそうではない。フルートの音にまったくグルーブ感がないかと言うとそうではない。
 ベースのような低音は出せなくてもフルートにグルーブは必要だし、グルーブ感のない演奏などまったくツマラナイ。クラシックの演奏家だってグルーブと無縁ではない。クラッシックの演奏家でも本当に一流の人たちの演奏にはいつもグルーブを感じることができる。その代表的なのがジャン・ピエール・ランパルだ(彼以外の多くのフルーティストに、それが見当たらないところが悲しいところだけれども)。根っからのラテン人ランパルの演奏にはいつもグルーブがあった。アイルランドのダブリン出身のジェームズ・ゴールウェイにも確かにアイリッシュっぽさはあるけれども、ランパルのあのグルーブ感には遠く及ばない。
 で、総じてフルーティストには、このグルーブ感、ハーモニー感覚、そして即興演奏能力をまったく持たない人が多い(というか、そんなことを考えもしない人がほとんどだろう)。世の中の大半のフルーティストはクラッシック畑の人。ほんの一部にラテンやジャズの人がいるが、これはまったくの少数派。ほとんどの人たちはクラッシック音楽を演奏している。それでは、その人たちが演奏している音楽はと言えば、バッハやヴィヴァルディ、ヘンデル、テレマンといったバロック中心のクラッシック音楽か、ドビュッシー、ラベル以降の近代/現代音楽。でも、一般的なクラッシック音楽のレパートリーといったら、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ブラームス、リスト、ショパン、ワーグナー、チャイコフスキーといった人たちの音楽のはずなのに(こういった作曲家の作品こそが宝の山なのに)、こうした古典、ロマン派の作曲家たちの誰一人としてフルート音楽を作らなかった。これもひとえに当時の楽器に魅力がなかったせいなのだが、そんなことを今さら言っても始まらない。なければ作る。だから、近代以降の作曲家たちはフルートの音楽をたくさん作ってくれた。
 ドビュッシー、ラベル、フォーレ、フランク、こういった人たちは、確かにフルートの一つ側面を見事に結晶化させ貴重なレパートリーを作りあげてくれた。ただ、その後がちょっとイケナイ。現代音楽の作曲家たちは、ちょっと方向を間違ってしまったのでは?と思わざるをえない作品があまりに多い。まず最初に技巧ありき。そんな感じすらする。
 楽器の性能がよくなり演奏家の技術が向上すれば、作曲家は演奏家にいろんなことを要求するようになる。チャイコフスキーのピアノ協奏曲にしても最初は演奏不能と言われたのが、今ではピアニストにとっては重要なレパートリーになっている。だから、どんな難しい作品でも、演奏は可能だと思って現代音楽の作曲家は音譜を書く。ただ、肝心なのは、その技術が必然的なものかどうかだ。それが音楽を表現するために必要な技術ならば、どんな難しい技術でも演奏家は克服していかなければならない。しかし、どうもフルートのために書かれたたくさんの現代音楽作品を見ると、そのほとんどが<技術のための技術>でしかないようなモノが多い(パガニーニやリスト、ラフマニノフの超絶技巧は、けっして技巧の見せびらかしだったわけではない)。リスナーは、別に技術を見るためにコンサートに行くのではない。「音楽」を聴きに行くのだ。そんな当たり前のことを理解していない作曲家と演奏家の何と多いことか。
 「フルートの音楽ってすごいネ」「フルートの音楽ってこんなにナイーブで刺激的、しかも心を和ませてくれる」。そして、最終的には「やっぱ、フルートの音も音楽も素晴らしいわ」という感想を持ってもらうこと。そのための作品作り、そしてコンサート作りが絶対的に必要だ。新しいレパートリーをフルートのために作ること、そして、表現をしていくこと...。これらのことを実践してはじめて、私の言う「フルート音楽の革命」が達成されることになる。
 何も新しい作品だけでなく、ジャズがそうであるように、既成の音楽のアレンジも試みていく必要がある。ただ、それもフルートでなければならないという必然性があっての話し。例えば、私がよく演奏する坂本龍一の「戦場のメリー・クリスマス」やスタンダードの楽曲たち(「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「マイ・ファヴァリットシングス」など)には、当然それをやる意味があってやっている。そうでなければやる必要性はまったくない。別に「戦メリ」でなくても「ラスト・エンペラー」や「シェルタリング・スカイ」でもよいのであれば、当然そちらを選択している。「戦メリ」も「フライ・ミー」も、フルートでやる意味があるからこそやっているのであって、ただ有名な曲だからやっているのではまったく意味がない。
 楽器というのは、人間のことばの代わりになるもの。人間の意志を伝える道具でなければならない。ということは、それを演奏する人間の中身がそのまま出てくるということでもある。技術しか持っていない人は、「技術」しか表現できない(技術を持つことはすごく大切で難しいことだが、技術それ自体が音楽の目的にはならない)。人生が素晴らしいと感じていない人に「人間の素晴らしさ」は表現できない。というか、できるわけがない。人間の悲しさやツラサを理解できていない人にそれを楽器を使って表現することはできないだろう。「人間」を知らなくて、人間は、一体「何」を表現するというのだろうか?
 楽器というのは、道具でしかない。問題はそれを表現する人の中身と表現の仕方。でも、素晴らしい楽器と素晴らしい音楽がそこにあれば、私たちは本当に音楽の未知の可能性を信じることができる。フルートという楽器の素晴らしさと可能性を信じられたからこそ、私は数十年この楽器を演奏し続け、作品も書き続けてきた。だからこそ、本当に思う。この楽器を変えたい。この楽器の可能性をもっともっと広げたい。
一人でも多くの人に思ってもらいたい。「フルートっていいネ」と。

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