JANUARY 30のDIARY 『DISCIPLINE』

 
 江戸から明治にかけての時代は、おそらく日本の歴史でも最も波乱に満ちた変化があった時間だったのだろう。自分がもしその時代に生きていたらと時々空想する時がある。
 鎖国から開国へという時代の変化の中で人々の見たものは一体何だったのか?という想像は膨らむ。しかも、この変化が革命というような荒っぽいやり方ではなく、江戸城がスンナリと十五代将軍の慶喜から民間の手に明け渡されたというのも驚異的なことだ。もちろん、そこには勝海舟と西郷隆盛の間の話し合いがあったからこそと言われているし、悲劇のヒロイン皇女和宮の存在もあったのかもしれない。
 江戸明け渡しの会見で、勝海舟が「西郷さん、江戸はもう徳川のものではない、日本の首都だ。それでもあなた、攻めるとおっしゃるか」と言い、それに対して西郷が「わかり申した。勝殿の御意見、わたしの考えとして、総督府の連中にお伝え申そう」と言ったというが、日本の運命がこの二人の話し合いで決まったというのも考えてみればスゴイ話しだ。幕末から明治にかけては今では信じられないような話しがたくさんあったのだろう。
 明治政府ができる6年前の万延元年(1860)に初めてアメリカに行った新見豊前守正興を正使とする遣米使節の話しは特に面白い。何しろ、ペリー以来開国をずっと迫られていた日本政府が初めて正式にアメリカに送り込んだ使節だ。同じ年に、勝海舟らの咸臨丸がアメリカに渡っているが、彼らは民間のいわばヴォランティア使節。アメリカ政府との正式な交渉に望み日米修好条約を結んだのは、新見大使らのお役人たちだった。実際の渡米クルーは百人を越えていたらしいが、正式の代表は正使一人に副使二人の3人。副使の一人村垣淡路守範正がこの訪問の様子を文章に書き残している。ワシントンで歓迎を受けた時、彼は、日本人として初めてパーティでダンスを目撃する。
 「男女組み合いて足をそばだて、調子につれてめぐること、こま鼠の回るようであって、なんの風情もない。高官の人も老婦も、若い人も、みなこのダンスを好んでする由である。数百人の男女が、あちらのテーブルの酒や肉を飲んだり食べたりして、またこちらにきて代わる代わる踊る。夜遅くまで遊ぶ。まったく夢かうつつかわからぬほど、あきれたことだ。およそ礼儀のない国とはいいながら、外国の使節を宰相が招いてのことだ。無礼ととがめれば、限りはない。礼もなく、義もなく、ただ親の一字を表すものと見て、許した」とある。
 ということは、もし彼が許さなかったら刀を抜いてアメリカ人たちに斬りつけでもしたのだろうか?
 まあ、武士とはいえ役人でもあり多くの外国人の前でそうした行動をする勇気はさすがになかっただろうが、彼も「ラストサムライ」の一人だったことは間違いない。
 大リーガーのイチローが、アメリカの野球プレーヤーが野球の道具の手入れをしっかりやらなかったり、ベンチやロッカーでガムをかんだりツバを吐き散らしたりという礼儀のなさを嘆いていたが、どだいアメリカ人に礼儀を求める方が無理というものだろう。英語に「disciplineディシプリン」ということばがあるが、アメリカ人にはこのことばは通用しない。「修養、鍛練、訓練」といった意味が辞書には出ているが、私はこのことばを「しつけ」と訳している。多分、「しつけ」と「がまん」の両方の意味あいを含む、東洋人にはわかりやすいことばの一つだ。逆に、欧米人、特にアメリカ人には最もわかりにくいことばかもしれない(楽器を練習したりするのには、まさしくこの「ディシプリン」が必要なのだけれど...)。
 遣米使節の人たちの見た「生のアメリカ」には、まさにこの「ディシプリン」が欠如していたのだろうと思う。それに腹をたてた使節たちの気持ちは痛いほどよくわかる。イチローの見た「アメリカ」にも、ベンチやロッカーでツバを吐き散らす「ディシプリン」が欠如した人間がいたのだろう。
 でも、これって「ディシプリン」や「礼儀」の問題以前に、人間としての品位や尊厳の問題なんじゃないだろうかという気もする。
 品位のない国に世界をかき回されたくはない。

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