JANUARY 21のDIARY 『自由』

 
 年末から今年の頭にかけて一体どれぐらい活字を書いたのだろうか?CDのライナーの原稿が6枚分と2月に出る予定の新しい本の原稿で相当な量(これはハンパじゃなかった)の原稿を一気に書き上げざるをえなくて一時はフーフー言っていたがここ数日やっと落ち着いた。
 今度の本はこれまでに雑誌その他で連載していたCD評や音楽エッセーなどをまとめたものと、さらに新しいエッセーを書き足したもので、私としては初めてのエッセー集とも言えるものだ。これまでは、一つのテーマをじっくりと調べあげ書き下ろす本ばかりだったが、今度は初めて短い文章をたくさんまとめたものが本として出版される。かなり言いたいことが言えてる本だと思う。
 私の仕事は別に音楽評論家でも何でもないので、何かに遠慮したりゴマをすったりする必要もまったくないのでCD評にしても自分が選びたくないCDは一切選んでこなかったし、これからも選ぶつもりはない(今でも雑誌にCD評は連載している)。世の中にはいろんな雑誌があるが、その雑誌には大体映画や音楽のコラムみたいなものがある。そういった場所で取り上げられる映画やCDは、大体映画のプロモーター、レコード会社、音楽事務所などからプロモーションされたものをそもまま記事にしたりしている場合が多い。要するに、業界の中でのつきあいやしがらみがそのまま原稿になっているケースが多いのだ。でも、私はこれまでにそうしたつきあいで原稿を書いたケースはほとんどない(それでも、知り合いの音楽事務所からぜひにと頼まれてあるアーティストのCD紹介の原稿を書いたことが2回ぐらいはあったことはあったけど)。
 アメックスが国別の人生観や価値観を調査したというニュースを今日やっていた。それによると、「家庭や家族」「正直」「尊厳(つまりプライド)」などの価値を最も大切なものにあげる国は日本を含めてかなり多いそうだが、日本だけが「自由」の価値が低いという。「調和」「協調」といった価値が上位に来る日本では「自由」の価値が低いのはある意味当たり前のことなのだろうと思う。そんな「自由」のない国日本で、自由にモノを言うのはかなり至難のワザだ。それがたとえ原稿という形であっても、そう簡単に「自由」には発言できない。何しろ、本音は言うべからざる国で、本音を隠して何とか波風をたてずに生きる「役人」的な生き方がもっとも賢い生き方だとこの国では長い間教えられてきている。そうした価値観を、これからの若い世代の人たちはどれほど切り崩すことができるのだろうか?それとも、やはりこの国では「自由」など求めずにすべてを「協調」の方向に持っていくのが正しいと判断するのだろうか?
 私は、お世辞を言うのも言われるのも大嫌い。私は、本音がいえない、本音で行動できないくらいだったら、家で寝ていた方がマシだと思う人間だ。だから、原稿は、本音でいつも書いている。ヨイショ記事を書くぐらいだったら原稿書きの仕事なんかいらない。いいと思うことをいいと言う。悪いと思ったことを素直に悪いと言う。それができない社会のどこが面白いのだろうか?「調和」して「協調」して生きると言えばカッコいいいが、要は、馴れ合って生きているだけじゃないの?と私は思う。本音を言うと相手を傷つけるからなるべく本音は言わない。それって、自分が傷つけられたくないからじゃないのかナ?お互いが批判し批評しあっていかない限り、お互いの成長はまったくないハズなのに....。
 どの業界でもどの組織でも馴れ合いと談合ばかりが幅をきかせている。会社でも芸能界でも音楽界でも学者の世界でも、日本の社会で「自由」という価値観は禁句だ。
 私は「群れ」が嫌い。今年の成人式で暴れた若者を許すとか許さないとかいう市と市長さんが話題になっている。これって、どっちもどっち。まず、まともな若者だったら、あんな成人式になんかいかないだろう。役所はとりあえず「式」やりたいし、やらなければならない。そんな「式」が本気で面白いと思っていくわけでもないのに「式」に出るのはそこに仲間がいるから。要するに、ただ「群れたい」だけ。どっちもロクなもんじゃない。私は3つ大学を卒業したけれど、どの卒業式にも出たことはない。出る必要なんかこれっぽっちもないと思ったからで、後悔もしていない。
 どうしてもっとみんな「自由」を欲しがらないんだろう?本当は欲しがっているのかナ?どっちみち、日本の社会では「自由」なんか得られないと思って最初から諦めているのかナ?
 でも、きっと本気で欲しがってはいないんだろうと思う。世の中に本気で欲っして得られないモノは何もない。「自由」が欲しければ本気で欲しがるしかそれを手に入れる方法はないはずなのに.....。

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