SEPTEMBER 4のDIARY 『子供と大人の違いって?』

 

 秋雷ということばがあるのかどうかは知らないけれども、昨日の夕方突然降り出した雨と雷は、遅すぎた夏と入れ代わりにもうすでにそこに秋がいるということを教えてくれているのかもしれない。
 雷というのは天気が不安定な時に起こる。だから、雷は、冬から春へ、春から夏へ、そして夏から秋へと季節が移り変わるそんな合図でもある。今日の雷が本当に夏の終わりを告げているのだろうか?
 この夏は、ほとんど家のリフォームのための片付けだけで過ぎてしまったような気がする。二十年分のホコリを払ういい機会でもあったのだが、やはり片付けはシンドイ。一つの部屋をリフォームした後、次ぎの部屋へという風に順番にやっていったために、荷物のパッキングと移動だけで大仕事だった。これなら、いっそのこと引っ越しの方がどんなに楽だったろうかと思う。今も、リフォーム後の片付けが続いているが、このペースだと本当の意味でのリフォーム完了は、十月の頭になるかもしれない。
 ちょっと前に結審のついた大阪の小学校での殺傷事件の被告タクママモルという人物のことを見ていると、腹がたつとか憤るとか可哀想といった感情よりも先に、大人になりきれない人間が世の中には本当に多いのだなという風に感じられてしょうがない。彼の場合も、家庭で甘やかされたとかいうよりも、自分の失敗や自分の行動のすべてを他人や環境のせいにしているように見受けられる。これこそがまさしく大人成り切れない子供の考え方なのではないだろうか。どこまでが子供でどこからが大人かという線引きは二十歳や十八歳といった年令でつくものでないことは社会のすべての人がわかっていることだ。二十歳になった瞬間に「ああ、私は大人になったんだ」と思う人はいない(もし、いるとしたらその人は大人の意味をまったくわかっていない)。それは、単純に法律的に子供では通用しなくなっただけのこと。そんな線引きが何の意味もないことぐらい世の中の人はすべて知っている。でも、そういった線引き以外に本当の意味での大人の定義っていうのがあるとしたら、それは一体何だろうという疑問も同時に起こる。
 単純にタクマママモルみたいにならないこと、なのだろうか?いや、それは違うと思う。犯罪者というのは、一種の社会のスケープゴート(生け贄)的な存在にしか過ぎない。世の中の人すべてが犯罪を犯す可能性がある。だからこそ、それを犯さないための反面教師のようなスケープゴートが必要なのだろうと思う。だったら、大人って一体何?
 それは、ある意味簡単だけれでも、意外に難しいこと。自分自身に甘えないこと。私はそう思っている。
 他人に甘えるのは人間である以上しょうがないことだ。人間はたった一人で生きて行くことはできないし、お互いの助け、家族の助け、友人の助けがないと絶対に生きていくことはできない。でも、自分に甘えてはダメだと思う。自分に甘い人間は他人に厳しい。自分のことは棚に上げ、他人のアラばかりを見つけ批判し生きて行く。しかも、自分の失敗は他人のせいし、自分自身を客観的に見ることもしない。これは、まさしく子供の行動以外の何ものでもない。
 欲しいものはすべて手に入れようとする。それが手に入らないとダダをこねる。自分が何をしても本当の意味での責任を取る必要はない。常に甘えて生きていける存在、それが子供だとしたら、本当の意味で大人になるというのは、自分で責任をとって自立して生きること、つまりは、自分に甘えない人ということにならないだろうか?
 酔っぱらって交通事故を起こした人間もまた自分には甘い人間だし、自分の思う通りにならないと言って、自分の子供や妻に手をあげる人間も、人に手をあげる前に自分に対するキビシサをちょっとでも考えられたら、おそらく絶対にそんな行動は取れないはずなのにと思う。
 私は、自分が自分自身に甘くないかどうかいつも自分の行動を吟味するようにしている。できるだけ自分には厳しくいよう。ひいては、それが他人に対する優しさにつながるのではないかと思うから。

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