AUGUST 9のDIARY 『東京の街』

 

  台風一過、風のようやくおさまった夜の東京の街を車で走る。今週はいろいろな事柄で心身共に疲れ気味だったので、気分転換のために夜の街をドライブする。もう御盆の帰省ラッシュが始まっているのだろう。東京の街はけっこうガラガラ。いつもの土曜の夜よりもはるかに車の数が少ない。来週はもっと少ないはずだ。今ではそういうこともなくなったが、ひと頃は、このお盆の時期と正月は極端に東京から車の数が少なくなってしまうために、ふだん車の途切れることのない環状七号線の道路の上でまるで歩行者天国のようにスケボーをやる人たちもいたぐらい道路は空いていた。さすがに、今はそういう光景もほとんど見られなくなったが、かつてそんな時期もあったぐらい東京の人間が大移動をしていたということだろう。
 今年は江戸に幕府が開設されて四百年の記念すべき年ということで(そう言えば、江戸幕府は1603年に開かれたということを昔、日本史の教科書で覚えさせられたな)、江戸に関する本がたくさん出版されたり、TVなどでもその類いの特番が目立つ(NHKの「お江戸でござる」はいつもその類いのことをやっているが)。江戸の文化や社会風俗というのはとっても面白い。面白いというか、東京に生まれ育った私としては、「へえ、こんなこともあったのか?」と驚かされることもたくさんある。東京は、昔「トウキョウ」とは発音されずに「トウケイ」と呼ばれていたこととか(これは、それまで都のあった京都人への反発を恐れてということらしい)。江戸城があった当時、今の銀座のあたりから日比谷公園のあたりまではほとんど海だったということとか、今ではとても信じられないようなことがたくさんある。
 要するに、江戸城があくまで江戸の中心で、その回りに武家屋敷、そして商店が並んでいた格好だったのだろうから、私が生まれ育った渋谷などは、はずれもはずれのかなりの田舎だったに違いない。今明治神宮と呼ばれている場所は、もともと加藤清正という武士の屋敷で、それを幕府の大老の伊井直弼が自分の屋敷にして、それが明治時代になって今の神宮になったということらしい。この明治神宮には、私の実家が近いこともあって小さい頃は頻繁にでかけた。今もその前を頻繁には通るが中に入ることは稀だ。考えれば、明治神宮と江戸城の距離はそれほど近くはないが、きっと江戸城のそばにはあれほど大きな屋敷がなかったのかもしれない。大老と言えば、将軍様の次にエライ人なのだから、それなりの屋敷は必要だったのだろう。でも、あの明治神宮から江戸城までの道を伊井大老は毎日カゴに揺られながら登城していたのだろうが、一体どの道を使っていたのだろうかとも思う。今の青山通り(国道246)を使っていたのか、それとも明治通りの方なのだろうか?
 そんな興味もあるが、東京に住んでいて不思議に思うのは、よくまあこんな坂の多い町を首都にしたものだなあということ。東京の町には何とか坂という知名のなんと多いことか。谷底にある渋谷の街にしても、回りを宮益坂、道玄坂などに囲まれているし、三宅坂、三年坂、潮見坂などどこにでも坂のつく知名が残っている。ついこの前、茨城のつくば市に仕事で行った時一番強く感じたことは、あの新しい街にはほとんど坂がなかったこと。どこまでもフラットに広がった大地の上を碁盤のように真直ぐと走る道路が広がっていた。まるでアメリカの町並みを走っているようだなと錯覚した。サンフランシスコは確かに坂の多い街だったが、あそこは大きな一つの山のような地形のてっぺんに向かって四方から道路が伸びているので、東京のように細かい坂だらけという感じはなかった(坂のスケールが大きいということか)。きっと、この東京の街の郵便屋さんは大変だろうなと今でも感じる。三年坂などという知名も、そこで転ぶと三年以内に死ぬなどという不吉な由来があるぐらい、坂の登りはツラかったのではないだろうか。
 そうそう、一つだけ思い出した。明治時代から大正時代にかけて、郵便は即日配達だったという。「今日の夜、どこどこで飲もう」という誘いの手紙をその日の朝に出せば間に合った時代と、携帯電話でリアルタイムで連絡を取り合う時代とどっちが便利なのか、私にはよくわからない。

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