AUGUST 12のDIARY 『永遠のマリア・カラス』

 

  三度目の正直というか、やっと見れたというべきか、映画『永遠のマリア・カラス』を観る。
 一ヶ月ほど前から何度となくこの映画を見ようと有楽町の映画館を訪れたがいずれも満員で観ることができず、やっと大きな劇場に場所を移したせいで観ることができた。『めぐりあう時間たち』にしても、『デブラ・ウィンガーを探して』にしても、いわゆる女性映画が最近かなり人気を集めているようだが、この『永遠のマリア・カラス』は単なる女性映画とも違うのに、観客はやはり圧倒的に女性。男性はあまりこういう映画を好まないのだろうか。
 マリア・カラスがどういう形で描かれているかに興味があったが、この映画、彼女の生涯を描くというよりは、晩年の苦悩を中心に描いているので、かなり胸がつまらせられる場面が多かった。彼女に関するいろいろな本にも書かれているように、晩年は、自分の絶頂期に録音したレコードを毎晩のように聞きながら涙していたというような場面もあった。一人のオペラ歌手を主人公にしているので、当然ながら多くの録音を聞けたのも嬉しかったが、映画全体がフィクションとノンフィクション的なストーリーが混然一体となって進行していく描き方に多少の不満も残った。彼女を現すキャッチコピーとしていつも使われる「歌に生き、恋に生き」というフレーズ通り、彼女の生涯そのものがドラマなのだから、そのドラマをあまり脚色せずにそのまま描いてもらった方がもっと感動できたのではないだろうかという気もした。
 まあ、それでも、彼女は誰が演じようともどういう風に描こうとも、彼女の歌声さえ流していればそのまま感動できるほどの圧倒的な「うた」を持っているのだから、映画の随所で泣かされた。別に泣かせる映画でも何でもないにもかかわらず、観終わって涙をぬぐっている人はかなりいた。おそらくその涙は、映画そのものに感動したというよりも、マリア・カラスという不出生の大歌手そのものに感動したのだろうし、彼女の歌声に感動したのだろうと思う。
 この前ラジオ番組に出演して、番組のナビゲーターの岩國哲人氏から「みつとみさんがこれまでに聞いてきた歌手の中で最も偉大な人を一人あげるとしたら誰ですか?」という質問を受け、私は躊躇なくカラスの名前をあげた。おそらく、この世の中にウマイ歌手や技術を持った歌手は数え切れないほどいると思うが、私に人生の中でこれ以上の歌手はいないと思うのがマリア・カラスだ。
 彼女は、けっして技術で聞かせようとはしないし、声の美しさで感動させようとはしない。彼女は、「人間のドラマ」を歌いあげる。音楽の感動というのは、きっと単純なことだと思う。それが歌であれ、ピアノであれギターであれ、それを聞いた瞬間に「人間」が感じられるかどうか。あらゆる芸術の目的は「人間」を表現できるかどうか。私は、ここにしかないと思っている。
 バレエ・ダンサーの見事な肉体の動きや跳躍は、単なるアクロバティックな動きを鼓舞しているのでもなく、若い肉体の美しさだけを表現しているのでもなく、その動きの向こうにある「人間の素晴らしさ」を表現しているのではないかと私は思っている。「人間って何て素晴らしいんだ。こんなこともできるし、人間の肉体はこんなにも美しいんだ」と思った瞬間私たちは感動する。
 私がカラスの歌に感動するのも、この感覚に近いものがある。彼女は、「うた」の中に「人間の生きざま」を凝縮しようとする。彼女の「うた」を聞いていると「人間」そのものが感じられる。技術を越えたものが、彼女の「技術」の中に表現されている。わずか53才で亡くなってしまった原因が自殺かどうかはそれほど問題ではないだろう。ギリシャの大富豪オナシスをめぐるジャクリーヌ・ケネディとの三角関係などのスキャンダルは、ひょっとしたら彼女の歌手生命を極端に短くした原因なのかもしれない。でも、たとえそうであっても、彼女がこれまでに残した歌声は何ものにも代えがたい価値を持っている。
 映画のエンディング・テーマともなっていたベルリーニのオペラ『ノルマ』の中のアリア「清らかな女神」は、何度聞いても、これ以上の「うた」があるのだろうかと思えるほどの名演だ。私は、これまでの人生の中で、このカラスのこのアリアに出会えたことほど幸せなことはないと思っている。人によって、「これが私の一番の音楽の宝物」と言えるような音楽は異なると思うが、私は、この「清らかな女神」は、単に私にとっての宝物というよりは、人類すべての宝物であると確信している。これほど素晴らしい宝を残して死んでいったマリア・カラスに、人々が「ブラボー」の声と共に見送ったというのは当然と言えば当然のことなのではないかと思う。

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