JULY 26のDIARY 『雨上がりの情景』

 

  いつまでたっても夏らしくならない。梅雨が一体いつまで続くのだろうかと思う反面、このまま涼しいのもいいかなと思ってしまう。でも、きっと寒い夏はかなりいろんな影響を私たちに与えるのではないかとも思う。まず、農作物が不良になれば必ず価格の高騰になってハネ返ってくる。大体において、夏は野菜が最もおいしい季節。野菜の味の決め手は、ビタミンでも繊維質でもなく水分。雨が多いから野菜の水分が多くなる、というわけにはいかない。適度な温度と日照がなければ野菜の成長もその水分の中の甘味も不足してくる。大体において、過剰な雨は根腐れを引き起こしてしまう。野菜不足にならないことを願う。
 青梅で行った繭蔵コンサートも盛況のうちに終わり、東京桜組が行った芝居の公演用の音楽もわりといいものが出来上がり、ここしばらくは家の片付けに明け暮れている。二十年も住み続けたこの場所のオーナーがリフォームをすることになったためだ。単なる掃除や整理と違い、リフォームともなればほとんど引っ越しと同じぐらい家の中を片付けていかなければならない。仕事がら、本やCDはとてつもなく多いけれども、こういうものの整理はそれほど苦ではない。形が同じだからだ。大変なのは、食器や調理器具などの台所用品。こちらは、形が全部違う。まだこちらには手はつけていないけれど、そのことを考えると頭が重い。料理をするのは何の苦もないのにと思う。
 ビデオも数も相当だ。映画は多いし、音楽ビデオもたくさんある。でも、整理をしていたら、自分の出演した番組などのテープがかなりの数あることにも驚いた。ここ最近はあまりテレビ出演などがないので、そんなにテープがあるとは思っていなかった。ただ、そんなものをいちいち再生して見る気にはならない。私は、過去は一切振り返らない主義なので、過去の自分のキャリアも「え?そんなことあったっけ?」と意外と忘れていることが多い。どうせ、人間は死ぬ直前に自分の過去が全部走馬灯のように巡ってくるというので、その時に全部思い出せばいいと思っている。それよりもこれから何をするか。そっちの方が頭の中を駆け巡る。まだやりたいことは山ほどある。あまりにもあり過ぎて「全部できるかナ?」と、そっちの方が心配になる。
 過去を振り返ると言えば、人間は、日記やアルバムや手紙などのモノをきっかけに過去を思い出すことは多いが、匂いで過去が蘇ることも多いのではないかと思う。沈丁花やクチナシ、木犀などの季節ごとに巡ってくる花の香りは過去を思い出させやすい。でも、そうした具体的な香りでなくても、梅雨のムッとした空気、朝のヒンヤリと肌を刺すような冷たい空気、食べ物の匂いの混じった夕方の沈澱した空気や風からも過去の記憶は巡ってくる。私が梅雨の生暖かいジメっとした空気の中に思い出す光景はアメリカのセントルイスという街の光景。しかも、記憶自体あまりイイ記憶ではない。それも女性が絡んでいる。
 その時、あるアメリカ人女性と一緒に住んでいた。私はまだ学生。彼女は、私よりは年下だったけれども、立派な人妻。わけあって、彼女はご主人と別居していた。そんな彼女と私はある夏、一つ屋根の下で暮らしていた。というよりは、私が居候していたという方が正しい。今だから言えるが、彼女もそのご主人もセントルイスの交響楽団のヴァイオリン奏者。よくある教師と弟子の関係だったそうだ。でも、そんなことは私には関係がない。それよりも、彼女もご主人も同じセントルイスの町の住人。どこかでハチ合わせをしないか、そちらの方が心配だった。そして、その心配はある日現実のものとなった。ある日、彼女が市場へ買い物に行こうと言う。しかし、私が、「その市場って、ご主人とよく行っていたところじゃないの?」と聞くと、「大丈夫、大丈夫」と気軽に返事をする。何となく不安な予感を感じていたが、まだ不馴れなアメリカでは地元の人間の彼女の言うことを聞くしかない。二人で市場の中を歩いていると突然彼女が足を止め、固まる。咄嗟に恐れていたことが現実となったことを私は察知して彼女の視線の先を追う。案の定、その視線の先にも、同じように固まっている男性が立っている。私はどうすることもできずに、その場の成りゆきを見守る。それしか手はなかったと思う。そう思った私から彼女が少しずつ離れ、その男性の方に歩み寄っていく。「どうなるのだろう?このまま、彼女は彼と一緒に去ってしまうのだろうか?それとも....?」
 結局、再び私の方に帰って来た彼女と私はただひたすら押し黙ったままどこへ行くとも当てもなくあるバスに乗った。行き着いた先は郊外の病院。彼女がその時ご主人と何を話したかは一切聞かなかった。二人で、病院のベンチに腰をおろしたまま、まったく会話もなく夕暮れまでそのままそこに座り続けていた。ジトジトした雨上がりの暑い夏の日の情景だ。
 ふだんまったく思い出すこともないこうした遠い過去の思いでがなぜ匂いや空気と共に蘇ってくるのかいつも不思議に思う。私は過去は思い出したくないし、過去にすがって生きたくもない。しかし、人間が今あるのは過去があったからこそ。いつも未来を見ていたいけれども、今ある現在は、過去があってはじめてできたもの。そんな風に考えると、人は、自分の身体の中にいつも過去(自分だけの過去ではなく、自分の血筋の祖先のすべての過去もすべて背負っているような気もする)という引き出しを持ち、それをいろんな鍵で開けることができるようにできているものなのかもしれないナと思う。

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