JULY 16のDIARY 『人間の可能性とは』

 

 キューバのアーティスト、コンパイ・セグンドが亡くなったというニュースが一般のニュース番組でも新聞でも報道されていた。おそらく、映画『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』があれだけヒットしていなかったら、彼の死もまったく報道されることはなかったのだろうと思う。享年95才。
 日本では80才代や90才代で現役のアーティストや俳優をやっている人など本当に稀なのだが、世界的に見ればそれほど稀なことではない。日本の文化やサブカルチュアがあまりにも若い世代のものに片寄り過ぎているので、それこそ70才以上のアーティストがいるとなるとそれだけで人間国宝的な扱いを受けてしまうが、本来アートというものは死ぬ瞬間まで追求し続けるものだと思う。もちろん、肉体的な衰えというものはあるだろうが、それをカバーして余りあるものを人間は潜在的に持っている。
 このセグンド氏だけでなく、70才以上で今なお現役のアーティストを続けている人たちは世界的に見ればかなりいる。その中で私がすぐに思いうかべる人物は、現在百歳を越えた映画監督レニ・リーフェンシュタール、そして77才から絵を描き始め百一才の時に亡くなるまで絵を書き続けたグランマ・モーゼの二人だ。いずれも女性。レニ・リーフェンシュタールは今年百一歳で未だに現役で映画を撮り続けている。彼女が映画の撮影のためにスキューバダイビングの免許を取ったのは70才を過ぎてから。こんな女性たちは珍しいと言われればもちろんそうなのだが、彼女たちを見ていると人間の才能というものは、けっして若い時代だけのものではないということがよくわかる。セグンドにしてもそうである。
 私自身、こういった人たちから比べればまだまだヒヨッコみたいなものだが、それでも、年令と共にアートに対する考え方は若い時とはまったく次元の違ったものを見つめられるようになってきている。一日十時間以上も練習してテクニックのことしか頭になかった二十代や三十代の時に比べると、何かが変わってきているのが自分自身よくわかる。それは、テクニックだけ表現できるものがあまりにも少ないということだ。私の大学院時代の先生がよく言っていた。「音楽はスポーツじゃないんだから」。指を早く動かすことばかりに気を取られていた私にはこのことばの意味がいまいちピンと来なかった。「楽器を演奏するのに指が早く動いて何が悪い?」ぐらいの開き直りがその時期には自分の中にあったような気がする。先生がそういうことばを言うたびに、かえってむきになって指を早く動かそうとしていた自分がいた。しかし、だんだんといろんな経験をしてくると、そんなことが一体何になる?ぐらいの気持ちになってくるのがよくわかる。技術で表現できるものは技術でしかない。そんな当たり前のことに気づくのにかなりの時間をついやしたような気がする。
 十年ぐらい前に、ハワイのピアニスト、マーティン・デニーが日本に来日した時その日本公演に行った。彼は1911年生まれだから、その時ですでに80才ぐらい。彼は日本のYMOや大瀧詠一らに影響を与えたエキゾチック音楽のルーツ的なピアニスト。日本だけでなく、アメリカのポップス音楽にも多大な影響を与えた人でもある。彼の生の音楽を聞いて驚いた。「これこそ本物の音楽!」と思わず叫ばずにはいられないほど、彼の音楽は「人間」そのものを表現していた。その当時、スタジオの中で打ち込み音楽ばかりに明け暮れていた私に本当の音楽とはこういうものだということを思い出させてくれたのが彼だった。『ブエナ・ビスタ』を見た時に、この時のマーティン・デニーの顔が思わずダブってきた。本当に音楽を心の底から楽しんでいたあの笑顔を、『ブエナ・ビスタ』の中のミュージシャンたちも同じようにしていたからだ。
 音楽、映像、美術、....。美を追求するということは、人間を追求することに他ならない。こんな当たり前のことに気づくのに人間は一体どれだけの時間をかけなければならないのか?
 レニ・リーフェンシュタールは若い時、ナチスドイツに協力したということで戦後かなり批判された時期があった。ヒットラーの愛人というレッテルを貼られた時期もあった(今なおそういう見方をする人は多い)。それでも、彼女が撮ったナチス・ドイツ時のベルリン・オリンピックの記録映画『意志の勝利』や『民族の祭典』を見ると(一部しか見てはいないが)、スポーツやスポーツをする人間をこれほどまでに美しくフィルムにおさめた人は彼女以外にないと確信できるほどの「美学」がそこにはある。今なおアフリカのスーダンのヌバ族を映画に撮り続ける彼女がヌバ族の中に何を見ているのか?きれいに伸び切った手足の美しさを持ったこの種族の人間としての「美」を彼女はきっと描いていきたいと思ったに違いない。海に潜り海中の美しさを撮ろうとした彼女は、やはりそこにも何らかの「美」を見ていたに違いない。そこには、年令や時代や政治を越えた何かが彼女を動かし続けているのだと思う。
 キューバの音楽の「美」や「喜び」を表現するのに年令制限などあるはずがない。アメリカのニューイングランド地方の美しい田園風景をキャンバスの上に描くのに年など関係はない。そんな同じモティベーションが今なお百一歳のレニ・リーフェンシュタールの心の中にはあるのだと思う。
 人間の脳細胞が日々死滅し身体的能力が加齢と共に日々衰えて行くのは致し方のないところだろう。しかし、それでも、それを補ってあまりある能力と意志が人間の中には備わっているのだと思う。常に「可能性」というものを追い求めている限り人間というのは生き続けることができるのではないのか?95才まで音楽をやり続けたコンパイ・セグンド、百一歳まで絵を描き続けたグランマ・モーゼ、そして百一歳の今も映画を撮り続けているレニ・リーフェンシュタールといった人々を見ていると、若者文化しか追い求められない現在の日本の現状があまりにも幼稚に見えてくるのは私だけだろうか。

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