JULY 12のDIARY 『罪と罰』

 

 「犯罪者の親をひきずり出せ」とは、何とバカげた発言をする大臣なのか。親と子供は別人格だという認識がこの人にはないのだろうかと思う。罪を犯してしまった子供の親には、その犯罪に対しての責任があるのではなく、そういう子供を持ってしまった「業」が「因果」として背負わされるというだけのこと。
聖書の中に有名な話がある。
姦淫の罪を犯した娼婦が村びとに石を投げられているところにイエスが通りかかって、「この中に自分にまったく罪のないと思う人だけが石を投げなさい」と言うと、石を投げられる人は誰もいなくなった、という話し。この類いの話しはどんな宗教にもあって、要するに、人間にはもともと生まれた時から「原罪」を持っているんだということの比喩としてこの話しは使われている。
人間は誰しも「罪」と「罰」を背負って生きて行くもの。世の中に生を受けてから、他人をまったく傷つけずに生きていける人は一人もいない。人間としての「自然の摂理(生まれて死んで行く)」と「社会的責任(罪を犯して罰せられる)」とはまったく別の問題だろうと私は思うし、この二つは基本的には矛盾するものだとも思う。「自然の摂理」に従えば、あらゆる生物は他者の「死」を糧に「生きて行く」ものだし、社会的には「殺してはいけない」というルールに従わなければならない(だから、戦争は、この矛盾が最も顕著に現れている現象なのだと思う)。要は、この矛盾の間できちんとした精神的バランスを保てない人間が人間社会からはじき出されてしまい、罪と罰という社会的制裁を受けることになってしまう(ほとんどの人は、こうしたバランス感覚はキチンと持っているはず)。
 少年の凶悪犯罪はいま急に多くなってきているわけではないし、昔より犯罪がより凶悪になっているというわけでもない。それを単純に少年法が悪いとか、刑事事件の容疑者にできる年令を下げて行けばいいという問題に摺り替えるのはあまりに短絡的だ。問題は、「犯罪」や「死」、そして「罪と罰」というものが人間にとってどういう意味を持っているかということ。昔から犯罪とそれを犯す人は、社会のスケープゴート(生け贄)的な扱いを受けている。これこれこういう事をしたらアナタは罪に問われますよ、だから、それをしちゃいけません、という意味で、そうした社会のタブーを犯した人を見せしめのために処罰する(人間は誰でも罪を犯す可能性があるからだ)。おそらく、原始社会でも近代国家でも、社会と犯罪の関係というのはそうしたものだと思う。昔は、そこにより宗教的なタブーやルールが関連していた(今でも、イスラム国家では罪は宗教的戒律によって決められているし、近代キリスト教国家でも、「汝、殺すなかれ」「汝、盗むなかれ」といった戒律が社会のルールになっている)。
 私は、「幸せ」と「死」という問題をいつも隣り合わせに考えた方がいいのではないかと思っている。現行の十四歳から刑事罰の対象になる少年法の対象年令を十二歳に下げたところで問題は絶対に解決しない(次に十一才の少年が凶悪犯罪を犯せばもっと下げて行きたくなるだけの話)。今お金を持っていないことを「不幸だ」と嘆く人が、五百万円持ったら果たして幸せになるかというとけっしてそうはならないのが人間の常。人間のモノに対する欲望は果てしがない。五百万を得た人は、さらに一千万円が欲しくなるだろうし、金銭的な欲望は果てしなく続いていく。
 私は、最近、『音楽はなぜ人を幸せにするのか』という本を出した。この本の中で私が言いたかったことはただ一つ。それは、あらゆる生物は生まれた瞬間から死に向かって突き進んで行く「限りある時間」しか持っていない存在だということ。だからこそ、人間は、常に「幸せ」という永遠の時間を手に入れようとする。しかし、現実に「永遠の時間」など存在しない。ただ、私たちはそれでも「幸せ」というものを手に入れようとする。「いい音楽を聞いた時」「オイシイ食べ物を食べた時」「愛らしい我が子を見た時」....、こんな瞬間に私たちはいとも簡単に「幸せ」を感じることができる。音楽も食べ物も香りも、時に現実の時間とはまったく別の次元に私たちを導いて行ってくれる。「この幸福な瞬間が永遠に続いていってくれればいいのに.....」。誰しもそう思うが、現実に人間にはそんな永遠の時間など存在しない。私たちの肉体は滅びる。でも、私たちの血と遺伝子を受け継いだ子供たちは、自分が死んだ後もその時間を未来へと延ばしていってくれる。人間が子供を産むことに理屈を越えた幸福感を感じることができるのは、人間のこうした「限りある生」がその瞬間「無限の生」へと変わっていくような気になるからなのかもしれない。子供を産むだけでなく、人間は、さまざまなことから地球や生物の「悠久の時」を感じることができる。そして、それを感じさせてくれる音楽や食べ物、自然などのもろもろの出来事やモノに出会った時に、「幸せ」という「永遠の時」を感じることができるのではないだろうか。
 その意味で、「汝、殺すなかれ」という規範は、けっして社会的な「罪と罰」を私たちに与えているのではないと思う。ありとあらゆる生物にとって、生と死は表裏一体のもの。人間が生きる時、私たちは他の生物の死をいつも見ていなければならない。肉や魚、野菜を食べて生きていく私たちは、他の生物の「死」によって生かされている。肉を食べない、動物を殺さない、野菜だけ食べていこうとする菜食主義者でもそれはまったく同じこと。大事なことは「殺さない」ことではなく、「死」と「生」はいつも隣り合わせな存在だということを理解すること。もし現代人に凶悪犯罪が増えているとしたら、それはとりもなおさず現代人が「死」の意味を理解していないことに他ならない。スーパーで売っているありとあらゆる食品にはまったく「死」の匂いがしない。ラッピングされた肉や魚の切り身を「死体」だと思って買う人はいない。でも、実際、それは「死体」に他ならないことを認識しない限り本当の意味での生物の死の意味を理解したことにはならない。私たちの「生」は、こうした他の生物たちの「死」によってしか守られないのだから。
「死」を尊重する心があってはじめて「生」を大事にする心も生まれてくる。環境問題や自然を大事にしようという人たちは、釣りをする時に「キャッチ・アンド・リリース」ということを言うが、私はこれほど欺瞞的なことはないと思う。自分で食べないモノならば、何のために釣りをするのだろう?釣って逃がす?それこそ魚をオモチャにしているだけのこと。自分たちの楽しみや欲望のためだけに魚という生き物をいたぶることが生物の死を大事にすることだろうか?「死」のまったく見えない牛肉を食べることは問題なくって、鯨が殺されるのは残酷だという環境保護団体の偽善とまったく同じ欺瞞が、この「キャッチ・アンド・リリース」といく行為には見えかくれする。
 要するに、私たちの日常生活から、親の死、祖父の死、兄弟の死、友人の死、ペットの死(ペットを飼う上で一番大事なのはその生命の最後を看取ることだと私は思う)など、人間が生きて行く上にどうしても避けられない「死」をあまりにも遠ざけてしまったことこそ問題なのかもしれない。ゲームの中の「死」は、単なる「死のシミュレーション」でしかない。「死」をシミュレーションすることなどできるわけがない。今私たちが、もし少年たちに教えることがあるとすれば、「死」の意味と「生」の意味はまったく同義なんだということを教えることなのかもしれないと思う。人間にとって「死ぬこと」が不幸なのではなく、「死」の意味を理解しないことが不幸なのだと私は思うからだ。

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