JUNE 26のDIARY 『音楽と演技のリンク』

 

 今、芝居の音楽を書いている。7月半ばに公演のある小さな芝居だが、芝居の劇伴音楽の作曲は久しぶり。
 これまでにも芝居の音楽は何度か書いているし、TVやアニメなどの劇伴音楽などもたくさん書いてきたけれども、芝居の音楽というのは独特の面白さがある。CMにしても、アニメにしても、映画にしても、音楽はいつも映像が出来上がった後につける作業だが、芝居の音楽はそれとはわけが違う。芝居ができあがった後に音楽をつけたのでは遅い。最終的な稽古に音楽がないと、役者は演技を進めていくことができない。だから、ある程度早めに作っておく必要がある。台本を読んで立ち稽古程度の状態で音楽を作っていくので、あまり音楽が芝居の内容を説明し過ぎると役者が音楽につられた演技になってしまう。しかも、実際の舞台は毎日セリフのテンポや演技のテンポがリアルタイムで変わっていくので、かなりアバウトな音楽を用意しておかなければならない。つまり、演出家や舞台の意図を組みながらも、演技の邪魔にならないようにアバウトな音楽を作らなけれなならないのだ。
 ある意味、音楽が役者の演技をカバーしたり、ドラマを盛り上げるような音楽を書くのはそれほど難しいことではない。むしろ、そうしたアバウトな形の音楽を書く方が数倍難しい。それに、これを仕事と考えるとあまり割のいい仕事でもない。日本の演劇界で商業的に成功しているところと言えば、劇団四季ぐらいなものだろう(後、野田マップぐらいか?)。後は、みんな青息吐息でやっているところがほとんどだ。そんなところから多額な報酬なんて期待できるわけがない。好きだからこそできる仕事。そう割り切るしかないが、幸い私は芝居が大好き。わりと楽しんでやっている。
 仕事がら、映画を観ている時も音楽はかなり気になる。映像と音楽が本当にイイ関係でリンクしている映画はそれほど多くない。ハリウッド映画は、音楽があまりにも過剰でオーバー過ぎて、音楽が内容を説明し過ぎる傾向がある。役者の演技を観ていなくても、音楽を聴けば内容がかなり理解できてしまう。まあ、映画は一種の総合芸術(エンタテインメントなのですが)だし、別に役者の演技だけで見せているわけでもないので音楽がハデでも説明過多でもいいじゃないかという意見もあるが、私はやはり役者の芝居がすべてに先行していってもらいたい。そうでなければ、映画はすべてCGになってもいいわけだし、アニメ化したっていいわけだから。生身の人間が演技をしている以上、その人間が何かを私たちに伝えるものであって欲しいと思う。
 今日、ティム・ロスの主演する映画『神に選ばれし無敵の男』という映画を観た。この中でも考えさせられたのは、役者の演技と音楽との関係。音楽を担当していたのは、ハンス・ジマーというハリウッドでも超売れっ子の映画音楽作曲家の一人。案の定、BGM音楽はバリバリのハリウッド・サウンドそのもの。こちらにはほとんど惹かれるものがなかったが、思わず感動で涙を流しそうになったのが、劇中でもピアニストを演じている本物のコンサート・ピアニスト、アンナ・ゴウラリの演技と演奏。以前、『愛を弾く女』という映画でヴァイオリニスト役を演じていたエマニュエル・ベアールの本物ばりの音楽家の演技に感心したことがあるが、この『神に選ばれし無敵の男』の中のアンナ・ゴウラリは、それとはまったく逆の意味での驚きを与えてくれた。音楽家が音楽家の役を演じることとか、本物の教師が教師の役を演じることが芝居における「禁じ手」なのかどうかはわからないが、映画の中のアンナ・ゴウラリは確かに「演技」をしていた。そして、それはけっして本物の役者に劣るものではなかったし、劇中でオーケストラをバックに弾くベートーベンのピアノ協奏曲の音は、コンサートやCDで聴く以上の感動を与えてくれた。実際のストーリー展開とは直接関係のないこうした演奏シーンがかなり長いと思ったのも、監督のヴェルナー・ヘルツォークの意図をそのまま現しているものなのだろう。
 人間は誰でも役者になれる。日々演技をしない人はいない。それがうまかろうがヘタだろうが、人間に演技は常に必要な道具なのだと思う。しかし、本物のピアニストが自然にしていればそれだけでピアニストの演技になるというわけではない。劇の中のピアニストはその人自身ではないからだ。その点、彼女の演技は秀逸だった。相手役がティム・ロスという役者だったことが幸いしたのだろう(『海の上のピアニスト』でのティム・ロスのピアニスト役は多少クサい気もしたが)。ティム・ロス演じる独裁的なマジシャンに運命を翻弄される悲しいピアニストの役をきっちりと演じていたアンナ・ゴラウリの表現力にはとても感心させられた。
 演技と音楽のリンクにはいろいろな形がある。その一つの形を見たような気がした。

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