JUNE 19のDIARY 『ホテル・ハイビスカス』

 

 『ホテル・ハイビスカス』という映画を観に行く。同じ中江裕司監督の前作『ナビの恋』と同じような、ノドカでどこか不思議な沖縄の異文化風景を期待していった。そこそこ期待は裏切られなかったと思うが、映画としての出来は『ナビの恋』の方が上なのではないかと思った。
 前作主演だった平良とみと登川誠仁は脇に回っていたけど、この二人の味はなかなか他の人では出せない。特に、登川誠仁は俳優ではなくれっきとしたアーティスト。音楽をやっている人間が役者をやるとかなりイイ味を出す場合があるけれども、彼の場合はかなり特別。うまいとかヘタを超越している。沖縄の人にしか絶対に出せない雰囲気と説得力を持っている。
 沖縄の人にしか出せないもの。それは、紛れもなくそのことば。沖縄のことばを聞いていると、沖縄は絶対に日本なんかではありえないという気にさせられる。長い琉球王国の歴史からすれば、沖縄を日本の一部とすること自体に無理があるのでは?と思ってしまう。そして、彼らのテンションも沖縄独特のもの。別に、沖縄の人のテンションが特別高いわけでもない。むしろ、そのテンションはいつも一定で、どこにも起伏がないようにも見える。寒さと常に戦わなければならない高い緯度の国の生活と違い、温暖な気候の国には生活のメリハリはなかなかつけにくい。家の中と外界に温度差のある北の国には、意図的なテンションの上げ下げが必要になってくる。その点、暖かい地方の生活には家と外界にほとんど垣根がない。人間が家の中に隠るのではなく、外界と同じ空気で家の中でも生活する。家の中で寝るのも外で寝るのも、そんなに差があるわけじゃない。そんな生活の中から生まれるものって一体何だろう?と考える。きっと、何も生まれない。というか、生む必要がない。
 映画の中の男の人はほとんど何もしていない。女の人は、いつも何かしているが、男は何もしない。それでも、何も恥じる様子もない。たまに、農場の手伝いに行くだけ。前作の『ナビの恋』でも似たような風景があった。ここでも思う。女性には本来やるべきことがたくさんあるのではないのか?子供を産むこと、育てること、洗濯をすること、掃除をすること、食事を作ること、などなど。
 そんなの男だってできるし、やればいいじゃないか?そうも思えるが、こういう仕事、すべて女性の方がうまいし、キッチリとやることができる。男がいなくったって立派にこなしていける。じゃあ、男の仕事は?と言えば、種をつけることと、戦争すること?きっと、そんなことぐらいしかないんじゃないのかな?私は、時々本気でそう思う。大体、世の中に男にしかできないことって一体どれだけあるんだろうとさえ思う。今世の中で男がやっていることは、ほとんどすべて女性でもできる。というか、本来は女性の方が上手なことだらけのような気がする。でも、こう反論する人もいるかもしれない。女性よりも、男性の方が理知的にものが考えられて、理性的な判断ができる。女性は細かい仕事には向いているけど、男性のような大局的な価値判断や大きな仕事はできない。
 まあ、多分、都会のような人が多すぎる所ではきっとそうなのだろうと思う。人間が人間の社会を自ら狭くしていって、競争や上下の区別でしか価値判断ができなくなってしまう都会生活ではきっと男性が権力を持っていないと男性自身が生きられなくなってしまうので、仕方なくそうしているのだろう。でも、一日中寝ていても、時折起き上がって思い出したように仕事をし、後は三線を弾いているだけで生きられる沖縄の男性は、きっと男本来の生き方をしているだけなのかもしれない。
 「アリとキリギリス」。働きもののアリさんと、年中浮かれて暮らすキリギリスさんの寓話が古代ギリシャのイソップが起源なのかどうかは私にもわからないが、こんな寓話が沖縄や南の島で生まれるはずはないなと思う。厳しい冬に備えて夏もせっせと食料を貯えるアリさんがエライ!などという発想は、北国でしか生まれない。三線と島歌の名手・登川誠仁オジサンのあの屈託のない笑顔を見ていると、『ナビの恋』の中の登川誠仁の姿と二重写しになる。昔の恋人と駆け落ちして島を去っていく平良とみバアちゃんに、現在の夫である登川誠仁(もちろん、映画の中での設定)が、「しょうがないよね」と、駆け落ちする妻を優しく見送る男のどうしようもない「何もする気のなさ」と「おおらかさ」が思い出されて仕方がなかった。

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