JUNE 11のDIARY 『マーサの幸せレシピ』

 

 一時ハリウッド映画のあまりのツマラナサに映画からちょっと遠のいていたが、最近また映画をよく観るようになった(『アメリカン・ビューティ』以来、何にもアメリカ映画に感動しなくなってしまったような気がする)。
 劇場で観たものもビデオで観たものも含めて最近観た映画は、『きれいなお母さん』(これは、コン・リーの主演した、いわゆる感動ものだが、別に感動したくて観たわけではなく、中国語の勉強のために観た。だって、主人公の少年が聴覚障害者なので、お母さんのコン・リーがわざとゆっくり発音してくれてるので、ことばの勉強には最適)、『めぐりあう時間たち』(これは、ハリウッド映画の一つだが、主演の女優3人が私の大好きな俳優たちばかりだったので。ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープとくれば、見のがす手はない)、そして、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』、ドイツ映画の『マーサの幸せレシピ』。その他にも、『北京ヴァイオリン』とか『ハリ・ポタ』とかも観ているのだが、あまり印象には残っていない。
 『めぐりあう時間たち』は、けっこう難しい映画だった。どう難しいかと言うと、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』が下敷きにはなっているのだろうが、どこまでが小説の世界で、どこまでがウルフ自身の話しなのか、そして、最終的にはこの映画は何を訴えようとしているのかが中途半端で終わっているように思ったからだ。女性の生き方、特に、五十代の女性の生き方や恋愛や死に対する考え方が描かれているはずなのにそれがあまりストレートには伝わってこない。これなら、ちょっと前に観たシャーロット・ランプリング主演のフランス映画『まぼろし』に描かれていた五十代女性の心理の方がはるかにストレートに伝わってきてよく理解できたような気がする。またもや、ハリウッド映画に失望した、と言ったら言い過ぎだろうか。
 『ボーリング・フォー・コロンバイン』は、ドキュメンタリー映画なのに、あまりドキュメンタリーという気がしない。あまりにも現実離れした(日本の生活から考えると)アメリカの銃と一体化した生活の現状のドキュメントのせいか、「この人たち、ホントは演技しているのでは?」と思えてしょうがなかった。でも、きっとあれがアメリカの現実なのだろう。自分たちの身を守るために銃が必要。しかし、その銃に自分たちの生活は明らかに脅かされている。こんな自己矛盾の現実をアメリカ人たちはどう観るのだろうか。一度観ておいて絶対に損のない映画だ。
 最近観た映画の中で一番面白かったものは、『マーサの幸せレシピ』。タイトルだけ見ると、マーサ・スチュアートの映画か?と思ってしまうが(マーサ・スチュアートが何者か知らない人は読み流して欲しい)、
この映画はれっきとしたドイツ映画。かと言って、別に暗い重い映画ではない。まあ、こういう注釈をわざわざつけたのも、この映画の中には、ドイツという国に対するこういったステレオタイプの偏見(イメージ)が意図的に描かれているからだ。
 ドイツの一流レストランのシェフ、マーサの店にある時イタリア人シェフが手伝いにやってくる。店のオーナーが雇ったものだが、マーサはこのイタリア人シェフが気にいらない。というのも、このイタリア人シェフがやけに明るい。厨房にラジカセを持ってきて、歌うわ踊るわ、で真面目に料理ひとすじに神経を集中するマーサの感情を逆なでする。そんなある日、マーサの妹が交通事故で亡くなる。そして、残された姪っこをマーサが引き取る。しかし、独身で仕事を持つマーサがずっと姪っこの面倒を見続けるわけにはいかない。そこで、マーサは、妹の別れた亭主であるイタリア人を探し始める。そこで、都合よく存在するのが、この同僚のイタリア人シェフ(こういうところが映画のご都合主義なのだが)。彼の協力で姪っこの父親を探しあて元亭主にイタリアから姪っこを引き取りにこさせる。しかし、この頃には、マーサとイタリア人シェフは恋仲になっている(いわゆる喧嘩しつつも情が通いあったということですな)。それで、デメタシデメタシというわけではなく、マーサは、姪っこにも肉親の情を感じ、いったんは手放した姪ッこを再びイタリアまで彼氏と一緒に引き取りに行ってそこで晴れてデメタシデメタシの大団円になるという映画なのだが、この映画の面白さはこうしたストーリーそのものではなく(これ自体はたいしたことはない)、映画の中のそこかしこに散りばめられているちょっとした仕掛け。例えば、マーサが勤めるレストランの客の中に料理に文句をつける客がいる。
 「この肉には完全に火が通っていない」。そこで、マーサは応酬する。「これはちゃんと火が通っています。あなたの舌がおかしいのでは?」。でも、店のオーナーはマーサを叱りつける。「お客さまが火が通っていないと言ったら、火が通っていないということ。やり直しなさい」。
 マーサも負けてはいない。「私の料理は完璧です。やり直す必要はありません」。挙げ句は、マーサは、客に向かって皿の料理をぶちまける。もちろん、客が怒らないわけはない。それでも、店のオーナーはマーサを首にはできない。「あんたが、この街で一番のシェフでなかったらとっくに首にしてやる」。
 多分、ドイツ人の職人気質というのはこういう類いのことを言うのだろうと思う。けっこう日本人の職人堅気に似ているなとも思う。私たちがドイツという国やドイツ人に対して持っているイメージ(往々にして偏見の場合が多いのだが)は、真面目で堅物で律儀な国民、そして、ドイツは暗くて寒い国。これが.単なる日本人だけが持っている偏見ではないことをこの映画自身が証明する。姪っこをイタリアに引き取りに行く映画の最後の場面。マーサとイタリア人シェフが一緒に車で旅行する。その中でマーサが彼に聞く。「あなたは、ホントはイタリアの方がドイツよりも好きなんでしょう?」。彼氏がそれに答える。「そんなことはないよ。私は、イタリアの明るい太陽よりも、ドイツの寒さと暗さの方が好きだよ」。
 おいおいマジかよと思いたくなるようなセリフだが、これはその場所に実際に住んでみなければわからない感情なのだろう。それに、私はこのセリフを聞いて妙に安心した。ドイツ人って、自分たちの国を「暗くて寒い国」だと本気で思っているのだな。

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