APRIL15のDIARY 『映画「ミッドナイト・エクスプレス」』

 

  二十数年ぶりに『ミッドナイト・エクスプレス』という映画をビデオで見直してみる。最初に見たのは、アメリカの大学の教室の中。私が留学して間もない頃の78年のこと。アメリカの大学には日本で言う映画研究会のような組織がゴマンとあって、それぞれが毎日教室を使っていろいろな映画を自主上映していた。料金も格安で、どんな映画も一律に1ドルぽっきり。この大学の中の自主上映のおかげで、私は、それまで日本でまったく見たこともなかった小津の映画や溝口健二の映画、大島渚の映画などをほとんど見ることができた(小津や溝口の映画は、アメリカの方が評価が高い)。
 でも、この『ミッドナイト・エクスプレス』という映画の印象はひときわ強烈だった。トルコにガールフレンドと観光で行っていたアメリカの二十歳の青年が麻薬を持ち出そうとして当局に捕まってしまう。最初は軽い刑ぐらいに考えていた青年は、その刑の重さに愕然とする。青年の父親が大使館を通じて刑の軽減を画策するがトルコの裁判所にはそれがまったく通用せずに、折しもアメリカとトルコの外交関係がぎくしゃくしていた時でもあり、その青年は政治的なスケープゴートとして扱われ、当初の4年の刑が25年の刑にまで延長されてしまう。青年は獄中でのすさまじい拷問に耐え、最終的には脱獄してギリシャ経由でアメリカへ帰還するという実話を基にした映画である。
 イラク戦争のことを考えながら、この映画を再び見てみた。二十数年前に見た時の印象とは大分違う。あの時は、私もアメリカ留学中の一学生。クラスメートたちと、トルコという国は何とヒドイ国なんだろう。人権も何もあったものじゃない。法律もまったく通用しない所なのか。といった、ある意味憤りにも似たような恐怖心をトルコという国に対して持ったような記憶がある。しかし、今見てみるとこうした感情は、あの当時とは微妙に変わってきていることに気づかされる。
 まず、刑務所の中でも拷問や虐待は、日本の監獄でもそうだが、当然許されるべきものではない。ただ、きっとどこの国でも同じようなことがあるのだろうなとは思う。問題は、もうちょっと違うところにある。このアメリカ青年の問題は、もともと彼がトルコという国をナメきっていたところにあったのではないのか?だから、麻薬を簡単に国外に持ち出そうとしたのではなかったのか?しかも、彼の父親もアメリカの外交官もたかだか麻薬所持ぐらいがそれほどの罪ではないとタカをくくっていた節がある。トルコもイスラム文化圏の国。キリスト教の文化や法律とイスラムのそれでは根本的に考え方が違う。そこの所をまったく理解せずに、トルコという国は野蛮な国だと決めつけていたところがそもそもの間違いの始まりではなかったのか?
 アメリカという国やアメリカ人の考え方は、この当時(七十年代)も今もあまり変わっていない。だからこそ、イラク、シリア、イランと、「悪の枢軸」という勝手な論理で「悪者」を次々と作り上げていく。それが、あまりに自分勝手で独善的な考え方だということに、アメリカもアメリカ人もあまり気がついていない。
 今度のイラク戦争でも、捕虜になった女性兵士の救出劇が映画化されるということだが、けっしてアメリカという国は変わらないのだなと思う(この救出劇自体がデッチあげだというウワサもあるが)。いつの時代でも、自分たちの勝手な理屈でヒーローを作り上げようとする。考えてみれば、映画『ランボー』の主人公もあまりに身勝手な存在だ。もともとそこにいたインディアンたちを悪者にして、自分達が正義のヒーロー(カウボーイ)になる二百年前の理屈とまったく同じだ(自分たちと考え方や肌の色、宗教の違う人間をすべて「悪」にしたてるやり方は今度のイラク戦争もまったく同じ)。
 そんなこんなでこの映画を再び見直してみたのだが、私がもしあのままアメリカの地にとどまって今も仕事をしていたならば?とふと考えてしまう。私もアメリカ人と同じ理屈で物事を考えるようになっていたのだろうか?今のイラク戦争を正義の戦争と信じて支持したのだろうか?
 ふとこんな考えが私の頭をよぎるが、けっしてそうではないと信じたい。私のアメリカ時代の親友(白人)も、今回の戦争は正しくないと堂々と言っているのだから。

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