FEBRUARY 23のDIARY 『プロがいない』

 

 今度5月に発刊される最新本の原稿の書き直しを終えて、ちょっと一息というところ。でも、世の中は相変わらず喧噪というか、どうしようもなく悪い方向に動いていて気が滅入ることばかり。
 なぜに日本はこれほどまでにアメリカの金魚のフンにならなければならないのか理解に苦しむばかりだが、これもあれも今の政治家に哲学がないせいのような気がする。つい先日起きた韓国の地下鉄事故も運転手がマスターキーを抜いて逃走したんだというとんでもないことが起きて「なぜ?」と思うばかり(もちろん、一番悪いのは火をつけた犯人には違いないが)。
 あれもこれも、何か世の中からプロが消えてしまったせいなのではないのか?そんな気がしてならない。タクシーに乗っていても、自分で車を運転していてもタクシーの運転というのは「これが運転のプロ?」と疑いたくなるようなものばかり。韓国の地下鉄の運転手にしても、本当のプロの技術者とは言えない。ひいては、日本の政治家も果たして本当に政治のプロなのだろうかと思うばかりのことをする。
 私がプロと言っているのは技術のことを言っているのではない。本当のプロというのは、哲学を持っている人のことをいう。つまり、それぞれの分野で「何が一番大事なことかをわかっていること」がすなわち哲学だと思う。政治家が一番大事にしなければならないのは、国益と大衆の生活を守ることでしょう?それが政治家の哲学であるべきなのに、そんな政治家が一体どれだけいるのだろう?不特定多数の人をのせて走る乗り物の運転手にとって一番大事なのは客を安全に目的地まで送り届けることでしょう?自分だけ助かりたくてキーを持って逃げるなんていうのは言語道断。
 別に政治や運転手だけに限らず世の中からプロがどんどんいなくなってきている。というか、プロが必要とされない世の中になってきているのかもしれない。写真にしたって、デジカメさえあればとりあえずキレイな写真がとれる。編集も楽。そうなるとプロのカメラマンの存在もそれほど必要とはされなくなってくる。でも、写真のプロって一体何?と言われれば、写真を通じて人間や世の中の真実を伝えることでしょう?そんな哲学はデジカメには毛頭必要とはされないから、どんどんプロのカメラマンが世の中から消えていってしまう。音楽のプロって一体何と聞かれれば、それは、演奏や作曲を通じて自分の存在や「生きる」ことの意味を伝えることでしょう?演奏している人自身に「生きていることの喜びや悲しみ」がなければそれを聴衆に伝えることはできないはずなのに、演奏の技術や作曲の技術だけあればそれですべて終わりとしてしまう人があまりに多過ぎる。そんな人を私はプロとは呼びたくない。演劇だって、演技の「真似事」しかできない人があまりに多い。役者というのは、その役を真似ることではなく、見ている人が「その役」を感じることができるようにすることが一番大事なこと。誰々が武蔵を演じているというレベルでは単なる「真似事」にしか過ぎない。見ている人が役者の存在を忘れ、武蔵そのものを感じるところまで演技できなければそれは所詮学芸会にしか過ぎない。そんな当たり前のことすらわからない役者があまりに多すぎる。というか、役者以前のような気もするが。
 単にそれでお金を稼ぐことがプロだとは錯覚すべきでないと思う。そうした哲学ももたずに音楽や芝居や写真をやっていたって、それはコンビニのバイトでお金を稼ぐのと何ら変わりがない。少なくとも音楽をやっているのは何のため?音楽にとって何が一番大事なことなのかもわからずにやることほど聴衆をナメていることはないと思う。自分の楽しみのためだけだったらそれはアマチュア。技術を向上させることだけが大事なのだったら、一生練習し続けていればいい。大事なのはそんなことではないだろう。人間が何を求めて音楽を聴こうとしているのかそれを理解することがプロの音楽家にとって一番大事なことであり、それこそが哲学なのだと私は思うのだが。

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