FEBRUARY 12のDIARY 『イワシと芥川賞』

 

  明後日のキッチンライブの材料の仕入れでイワシが手に入らないとお店から急に言われて「何か他の魚で代用できないものか?」と言われたが、他の魚でイワシの代用はなかなかできるものではない。味が根本的に違う。特に、今回の料理は(種明かしをしてもいいが)3枚におろしたイワシの中骨も一緒に食べさせる料理なので、イワシ以外に中骨まで食べさせられるものはそう簡単に見つからない。幸い、お店が少々高い(実際はかなり高いのだが)イワシを仕入れることで妥協してくれたので事なきをえそうだが、ここ数年のイワシの不漁というのはかなり深刻だ。そもそもすべての魚のエサになるイワシがいなくなってしまったら、必然的に他の魚もいなくなってしまうではないか?これって、単に海が汚れたとかいうレベルの問題でもないような気がするが....。
 第128回目の芥川賞の受賞作の大道珠貴という女性作家の『しょっぱいドライブ』という作品と、まだ高校生で賞の候補になった島本理生(りえ)の『リトル・バイ・リトル』を続けて読んだ。読んだ後の第一印象。「芥川賞ってこんな賞だっけ?」。
 私がなんでこんな印象を持ったかというと理由は単純。読み終わった後、何かドッシリ重たいものを何にも感じなかったから。
 『しょっぱいドライブ』というのは、ある漁村に住む主人公の三十代女性と風采のあがらない六十代男性の不倫の話しだけれども、伝わってくるのは何か現実味のないほのぼのとした風景だけで、この女性の生き方やこの不倫相手の男性の人間的なナマナマしさはほとんど読み取れなかった。最終的には二人は隠れ家に二人で生活を始めるわけだけれども、読んでいると「ホントにこれでいいんかい?」と思いたくもなるし、逆に、この二人が現実生活から遊離した「影」のような存在にすら思えてくる。風采はあがらないけどお金だけはあるこの男性にどんどんお金をもらい、そのたびにお金で「縛られていく」自分を感じる主人公だけれどもそれに抗うこともしないのはどういう女性心理なのかといった描写もなく、ただそのまま自然に男性と時を過ごしていくのはなぜなのか?読者はそういうところこそ知りたいと思うのに。
 候補作の『リトル・バイ・リトル』も、高校を卒業したばかりの主人公の女性が、母親に無理矢理紹介されたキックボクサーの同年代の男性と次第に恋愛に墜ちていく過程が描かれているだけのまるで少女コミックのような話し。こちらは、この世代の少女の考え方やモノの捕らえ方がわりとよくわかりはするが、それだけのこと。あまりにも時間が淡々と流れていく。この点で、この2つの作品は共通している。芥川賞というのは、こういう本が選考の対象だったのか?と真面目に選考基準を疑いたくなってしまう。
 そして、もう一つ共通しているのは文章のこなれ方。2作品共、確かに文章はウマイなと思う。本当にこなれた文章を書く人たちだなと思う。特に、高校生の島本理生の文章など、時々出てくる勘違いのことばを除けば高校生の文章とはとても思えない。やはり、ここでも「そうなのかな?」と思うのが、今の若い世代の人たちの上手な「こなし方」だ。
 音楽にしても、十代や二十代の人たちの作る音楽は本当に「こなれてる」なと思う。欠点を探してもどこにも欠点が見つからないほどこなれている。逆に言うと、だからこそ「面白くない」と思える。どうしてもっとメチャクチャできないのかなとつい思ってしまう。そんな若いうちからこなれてしまってどうするの?そうも言いたくなってしまう。曲の作り方だとか、文章の技術なんてのは、やりながら体験的に覚えていけばいいのだと私は思う。それより、もっと「自分しか見れないポイント」がなければと私は思うのだけれども。
 「もし私以外の誰かが書いても同じモノが書けるなら、私が書く必要はない」。私は、少なくとも、そういう姿勢で文章も音楽も書いてきたつもりだ。悪いけれども、島本さんの作品だったら、好き嫌いは別にして、柳美里の作品の方がはるかにズッシリとくるものがあっていい(彼女の作風は個人的にはあまり好みではないけれど)。

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