FEBRUARY 10のDIARY 『シューシューのこと

 

 もう今週はヴァレンタインデー。その日に行うキッチンライブのためのメニュー作りやリハーサル(そう言えば、1月の終わりにも一つライブをやった)、猫の看病などのあれこれで忙しくしている間に前回更新したダイアリーからひと月以上たってしまった。何だかんだと言っても、私がこのホームページを始めてからダイアリーをひと月以上休んだことは一度もなかった。それほど、正月明けからこの間、私の愛猫シューシューのことにずっとかかりきりだったのだなと今さらながら思われてくる。
 今現在もそれほど安心できる状態ではないながらも一時の危険な状態は脱している。たかがネコ一匹のことにそれほどまでに生活のすべてがかき乱されるものかと思う向きもあるかもしれないが、生物と一緒に暮らすというのはそういうこと。これがペットではなく観賞用の植物一つでもそう簡単に死なすわけにはいかないし、勝手に放っておくわけにもいかない。それがましてや自分の子ならなおさらのことなのだろうが、あいにくと私は子供を育てた経験がないのでそれに関してはあまりとやかくは言えない。常に水を与えていなければ枯れてしまう植物も、エサやトイレの世話を常にしていなければならない犬やネコであれば、それを飼っている人たちの生活は彼らに少なからず拘束される。私もその拘束のために犠牲にしているものは多いが、逆に得るものも多い。単なる損得計算ではなく、ペットと一緒の生活を当たり前のように考えてきた私だ。ペットの具合が悪いだけでこれほど自分自身の生活もかき乱されるものなのか?
 これまでほとんど病気らしいらしいをしてこなかった愛猫の様子のおかしらにうろたえてしまった自分自身に少し悲しさを覚える。
 ま、とにかく一匹の猫と一緒に23年間も暮らしてきたのかと思うと、今さらながらあの猫もたいしたモンだなと思う。と同時に、やはり生物には「死」というものが絶対に切り離せないんだなということも改めて感じる。内心は覚悟していても日常的な時間だけが流れていくだけだと、「死」というものが間近に迫っているという実感はない。しかし、今回のように食べ物も取ることができず、排せつもできない状態が何日も続くと、「ああ、いよいよなのかな?」という覚悟を心の中に迫られる。人間の寿命もそれが尽きるまでは予知ができないけれども、モノも言えないペットならなおのことで、一体この子はいつまで生きてくれるものやらという問いをもう何年も前から毎日問い続けている。そして、「その日」をなるべく落ち着いて迎えられるように心の準備をするのが日課のようにはなっていたわけで、それがおそらく現実的になってきたというだけのことなのかもしれない。
 20才を過ぎた頃から思い始めた「どうせここまで頑張ったんだからいっそギネスブックにでも挑戦してみようか」というモットーも、挑戦するのは私ではなく猫の方。肝心の猫の寿命がどこにあるかもわからず飼い主だけがハシャイでいても何にもならない。ギネスに挑戦すると言っておきながら、実際の記録が何歳なのかついこの前まで真面目に調べようともしなかった。おそらく、自分の猫が「死ぬ」ことに興味がなかったからだろう。というよりは、そのことにあまり現実味を感じていなかったからに違いない。でも、つい2ヶ月ほど前にその記録を知った。34才と数カ月というトンデモない記録がギネスブックにはあったが(50年代の記録なのでそれが本当かどうかの信ぴょう性も残るが)、それを知った時も、後十年以上生きるのは大変だなという感想よりも、「それなら、シューも後十年以上生きる可能性があるということだな」という楽観的な見方しかしなかった。
 今思うと、真面目にあんなことを調べ始めるから猫の調子がおかしくなったのでは?と結果から来る原因探しのような無意味な後悔もしてみたが、私自身も含めて所詮は定められた命なのだろうから、私も猫も一生懸命それを全うしていくしかない。猫につられて内臓の調子をちょっとおかしくしてしまった私自身の身体を今少しいたわり始めている。

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