NOVEMBER28のDIARY 『右脳とアドリブ』

 

 先日の25日に新宿で行った<フルート・ラビリンス>が今年の下半期では自分の中でけっこう大きな部分を占めていたので、とにかく無事に終わってひと安心。ただ、舞台裏を話すと、開演直前のキーボード・トラブルなどで、わりとヒヤヒヤものだった(アコースティック楽器の中に一つだけ器械を混ぜてしまったのは私の責任なので、気を揉むことしきり。汗)。それでも、結果として、それほど開演時間を遅らせることもなく無事開演にこぎつけられた。いったん始まってしまえばもう後戻りできないのが舞台の常。その後は、ひたすらお客さんを和ませつつ予定のプログラムを消化していくことに全力を集中。終わってみれば、大分予定終了時間をオーバーしてしまったようで、これまた冷や汗(ホールというのは、お店と違って撤収時間がわりとキビシイので、終了時間はけっこうシビアに守ろうとしていたのだが......)。
 今日久しぶりにダイアリーを書こうとしてまたまた間をあけてしまったことに気づく(2週間ぶり)。今も、CDのライナーの原稿、雑誌のCD評の原稿、そして、次ぎの単行本の原稿など、原稿書きに追われているので、こういうHPの原稿にはなかなか手がつけられない。要するに、自分のホームページなど、締きりがある仕事ではないし、だいいち仕事という認識がまったくないので、時間に余裕がないとすぐなおざりになってしまう。それに、私は、演奏、もの書き、プロデュースなど、何足ものワラジをはいているので、毎日毎日どれを優先事項にしたらいいか決めていかないと頭の中が収拾つかなくなってしまう。よく、脳の右半球と左半球では命令系統が違っていて、原稿書いたりする時の脳は左側が働いていて、演奏したりする時には右側が働いているというような言われ方をするから、余計に演奏をモノ書きを同時にやってはいけないような強迫観念におそわれる。でも、私の場合、この脳の役割分担が本当に行われているのかという気もしないではない。別に、楽器の練習をしてすぐに原稿書きにスイッチするようなことはしょっちゅうだし、自分の頭の中でスイッチングが行われているような自覚もない(そんな自覚のある人はいないか?)。だいいち、楽器を演奏するということは、音符(=記号、つまり論理的思考)と音(=空気の振動、つまり空間や感覚の認知)を同時に認識するという作業なのだから、最初っから左脳と右脳は同時に働いているに違いない。
 で、思うのが、何ゆえに、多くのクラッシックの音楽家は即興演奏ができないのだろう?ということ。あれだけ技術の訓練を積んで、あれだけ多くの音符を一度に読み取って指を動かす能力がありながら、音符なしで演奏しなさいというと途端に固まってしまう。これは、けっこう不思議なことだ。私も長い間、音符を読む訓練と続けてきて、相当の音符は読めるつもりだが(プロのオーケストラで演奏していたことがあるぐらいなのだから当たり前といえば当たり前)、それでも即興演奏に何の問題を感じたことはない。もちろん、いい即興ができる時とあまりできない時の差はある。でも、即興ということに抵抗や不便を感じたことはない。それが、クラッシックの演奏家には即興ができない人が多い。それはなぜ?
 多分、こういうことだろうと思う。クラッシックの演奏家たちは、音符と指との連関性のパブロフ反応的な能力だけは身につけたけれども、本当の意味で音楽を作ったり感じたりする能力はあまりないのではないのか?こんな大それたことを言うと、こういう反論が返ってきそうだ。「それじゃあ、クラッシックの人たちは音楽を本当に理解していないというのか?」。別に、私はそんなことを言っているわけではない。私が言いたいのは、「音符を読む」ことと、「音楽を理解する」ことはまったく別物だということを言っているのだ。音符と指だけの関係で音楽を作っている人は、多分音楽は理解していない人なのではないかと思う。というのも、まだその段階では、右脳は働いていないと思うからだ。音符という記号の意味するところは完全に理解して(つまり、全部覚えて)、その後に、その音符から出てくる音で「音楽を作りだそう」としてはじめてその人は「音楽をやっている」ということになる。私はそう思っている。
 まったくの楽器の初心者が「この音符は、この指で、この音符はあの指で...」といっている段階ではとても音楽どころではない。ただし、それが、音符と指の連関が瞬時にできるようなかなり楽器に上達した段階になった人でも、ただ単に「それ(音符と指の連関作業)」をやっているだけでは、初心者とまったく変わりはない。ただ早く指と音符のリンクができるようになっただけ。それでは、単なる運動能力の上達、というだけのことだろう。音楽そのものとはまったく無縁の作業だ。音楽というのは、指を早く動かすこととはまったく関係がない。
 音楽とは、やはりあくまでも感覚的な脳の作業だろうと思う。「音楽は理屈ではない」ということは、「音楽は左脳では感じられない作業だ」ということでもあると思う。音楽を聴くことは、ものすごく空間的な作業。音楽を聴きながら音符を思いうかべたり指を考えたりするのは音楽家の特徴だが、それをやっている限りは、音楽家が音楽を「リスナーとして楽しむ」ことは永遠にできないのでは?という気がしてならない。もし、音楽家が音楽を聴いて涙することができるとしたら、それは、音楽家の頭の中から音符があとかたもなく消えている時。即興演奏というのは、きっと右の脳でしかできない作業なのかもしれない。だとすれば、音符という記号のない感覚空間へ入りこむのは、とりもなおさず、右脳に入りこむ作業なのだろうか?

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