NOVEMBER12のDIARY 『サロメとフラメンコ』

 

 私は、フラメンコとタンゴが登場する映画は必ず観るようにしている。先日も、渋谷の東急文化村で上映中のスペイン映画『サロメ』を観に行った。おそらく人類史上、文学や映画、音楽で最も多く題材となってきた有名な話しがテーマなのだが、全編フラメンコで表現される、まさにフラメンコ映画だ。ちょうど二十年前にも同じスペイン映画で、パコ・デ・ルシアが音楽をやって話題になったフラメンコ映画に『カルメン』があったが、そちらは舞台の稽古と現実がごちゃ混ぜになるような不思議な感覚の映画だった。今回の『サロメ』はもう少しストレートな映画。予言者ヨハネの首をヘロデ王に欲しいと言ったサロメの話しをフラメンコに振り付けて上演するまでの話しがセミ・ドキュメンタリー風に描かれている。
 バレエ映画『エトワール』の時にも感じたことだが、踊りというのはなぜにこれほどまでに人間を感動させることができるのかなと思う。肉体の美しさや動きを極限まで追い求めているからだと言ってしまえば簡単だが、人間の身体の動きというのはとことん美しいと思う。しかも、フラメンコもタンゴもなぜか妖しい。妖艶な美というのは、この二つの踊りにこそ当てはまるのではないかとさえ思える。ただ、この二つのラテン系の踊り、微妙にそのニュアンスが違う。どこが違うのだろうかといつも考える。
 ひょっとして、それはスペインという国の民族的な血が影響しているのかなとも思う。ヨーロッパは、ギリシャ・ローマ時代から、支配し占領し占領されという闘争の歴史をくり返してきたが、スペインも十九世紀までは世界中に植民地をたくさん作ってきた。アジアではフィリピンがそうだったし、南アメリカとメキシコはほとんど彼らの支配下にあった国々だ。しかも、スペインは被支配者を自分たちの「血」で支配してきた。つまり、自分たち民族の血を占領した国の民族の血と混ぜ合わせてしまう「混血」社会を作り上げてきたのだ。このやり方は、私たちアジア民族にはちょっと理解しにくい。実際問題、「混血」支配というのは、支配する側が支配される側を力でねじ伏せていく有無を言わせないやり方だが、私たちには余りにも乱暴に見えなくもない。昔、モンゴル帝国も世界を支配しようとした時代があったが、彼らが同じようなやり方をしたかのかどうか...?
 フラメンコを見ていると、その踊りの妖艶さ、官能的なしぐさ以上に、女性の踊りがひときわ目立つような気がする。フラメンコでも男性は踊る。しかし、その主体はあくまでも女性にあるような気がしてしょうがない。民族的な踊りには、いつも性的なテーマがある。人間が繁栄していくためには「出産」という事業が絶対に欠かせないが、その基本はセックスだ。だからこそ、踊りや音楽にはもともと性的なテーマが必ずどこかにあった。しかし、音楽は、その形態が観賞するためのものに変わっていったために性的なものはどんどん薄らいでいったけれども、踊りではそうしたものは今でも色濃く残っている。それが、フラメンコでは、女性の側からの強烈な表現として綿々と受け継がれているのではないだろうか。だからこそ、『サロメ』や『カルメン』といった、権力者の男性を翻弄する女性が主人公のテーマを好んで題材に選ぶのかもしれない。
 私がこれまでフラメンコやタンゴがテーマの映画を観てきた経験からすると、この二つの踊りの中にはある種の偏見があるのではないかと思えて仕方がない。その偏見とは、フラメンコを踊る男女のパートナーの組み合わせの中にある。スラっと長身の美形の男性とペアを組む妖艶な中年女性。これが、フラメンコの典型的な男女のカップリング。片や、タンゴでは、グラマラスなフィギュアの若い女性とペアを組む中年の小男....。
まさしく偏見以外の何者でもないが、これって意外と深い真実を含んでいるような気がしないでもない。大人の踊りとして世界中で愛好されているこの二つの踊り。いかにも絵になる美男美女がペアを組んで踊ってもよさそうなものなのに、こうしたカップリングはあまりお目にかかったことがない(もちろん、実際のカップルの話しではなく、あくまでも映画の中での話し)。これって、ひょっとしたら、支配者が被支配者に血を挿入する差別的な意味合いがこんな男女のペアのカップリングの中に含まれているのかしら?とも思ってしまうのだが....。

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